小鹿範満
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時代 | 室町時代後期 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 長享元年11月9日(1487年11月24日) | |||
改名 | 新五郎(通称) | |||
氏族 | 今川氏(小鹿氏) | |||
父母 | 父:小鹿範頼、母:上杉政憲の娘 |
小鹿 範満(おしか のりみつ)は、室町時代後期の武将。今川氏の第6代当主・今川義忠の従兄弟にあたる。
父の範頼(千代秋丸)は第4代当主今川範政の子で、範政は千代秋丸の家督継承を望み、兄の範忠と家督争いをし、幕府の裁定によって範忠が家督と決まった。範頼は駿府(静岡市)郊外の小鹿を領していたことから小鹿姓を称した。範満は範頼と堀越公方の執事上杉政憲(関東管領上杉氏の一族)の娘との間に生まれた。『今川記』は範満を「武勇に優れたり」と評している。
文明8年(1476年)に今川家第6代当主・今川義忠が戦死し、義忠の嫡男である龍王丸(のちの今川氏親)が幼少だったことから、譜代家臣の多くが範満の家督継承を支持し、龍王丸とその母の北川殿(幕臣伊勢盛定の娘、伊勢盛時(北条早雲)の姉)は法水長者の館(焼津市)へ逃れた。範満支持派と龍王丸派が数度の合戦に及ぶ内乱状態となった。この内乱に堀越公方足利政知が介入して範満の母方の祖父の上杉政憲に兵を率いさせて駿河へ派遣。関東管領上杉氏も扇谷上杉家の家宰・太田道灌を派遣した。政憲と道灌は範満を支持していた。
関東管領の力が駿河に及ぶことを警戒した幕府は龍王丸の叔父の伊勢盛時を派遣し、両派を仲介して龍王丸が成人するまで範満が家督を代行することで和談を成立させ、政憲と道灌を撤兵させた。範満は駿河館に入り、龍王丸は法水長者の館に身を寄せた。盛時は龍王丸の将来の家督継承を確認するため前将軍足利義政の御内書を得ている。範満の家督代行の実態については史料が不足していてよく分からない。範満の活動としては、伊東祐遠の忠節を賞した書状が二通残っている。
龍王丸が15歳になり成人しても範満は家督を返そうとはしなかった。長享元年(1487年)北川殿は京で将軍足利義尚に仕えていた盛時に助けを求め、盛時は再び駿河に下り、同志を集め、同年11月、盛時は駿河館を襲撃する。範満とその弟の孫五郎は防戦するが叶わず自害した。
家永遵嗣(学習院大学助教授)は範満の家督継承は太田道灌の支持によって成立していたが、その道灌は文明18年(1486年)に主君・上杉定正によって謀殺された。道灌の後ろ盾を失った範満の権力基盤は弱体化し、その情勢を踏まえて盛時は駿河国人衆の支持を取り付けて龍王丸の家督継承を成功させたと論考している。
龍王丸は駿河館に入り、元服して氏親を名乗る。盛時には興国寺城(沼津市)が与えられた。この小鹿範満討滅は北条早雲の関東進出の第一歩となる。
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