尾形光琳
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尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家。工芸家。
後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家である。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザイン等に与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。
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[編集] 生涯
[編集] 尾形家と呉服商雁金屋
光琳は万治元年(1658年)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。光琳30歳の時、父宗謙が死去し、光琳の兄が家督を継いだ。その頃、雁金屋の経営は破綻していたが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。40代になって画業に身を入れ始めたのもこうした経済的困窮が一因であった。大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都会的センスとデザイン感覚があふれている。弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き小袖の絵付け、漆工芸品のデザインに至るまで、幅広くその才能を発揮している。
尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない。伊春の子・尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。呉服商雁金屋は宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。宗柏の末子で、雁金屋の後継ぎとなったのが光琳・乾山兄弟の父である尾形宗謙(1621 - 1687)であった。この宗謙も光悦流の書をよくし、絵も描くという多趣味な人物であった。光琳は宗謙の次男として万治元年(1658年)生まれた。宗謙の38歳の時の子である。初名を惟富(これとみ)、通称を市之丞といった。5歳下の弟・権平が後に画家、陶芸家として知られるようになる乾山である。当時のファッションの先端であった呉服商に生まれた光琳は、少年時代から能楽、茶道、書道などに親しんだ。こうした環境が後の彼の画風に大きく影響したと思われる。絵は狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。
雁金屋の経営は、最大の得意先であった東福門院の死去(延宝6年・1658年)を期に傾きつつあった。また、米を担保に大名に金子を融資する「大名貸し」を行って、その多くが貸し倒れになったことも雁金屋の経営悪化に拍車をかけた。こうした中で光琳30歳の貞享4年(1687年)、父宗謙が死去し、家業は光琳の兄が藤三郎が継ぐことになったが、一家の経済は相当に厳しい状況にあったようである。光琳が画業に精を出すようになったのは、家業の経営難で激減した収入を絵で補うという面が大きかった。
[編集] 画業の開始
光琳は30歳台前半に浩臨と改名。「光琳」の名が史料上確認できるのは35歳の(1692年)が初見である。44歳の元禄14年(1701年)には法橋の位を得ている(「法橋」は本来は高僧に与えられる僧位の1つだが、後に絵師、仏師などにも与えられるようになった)。光琳の作品には制作年代を確定できるものは少ないが、多くの作品に「法橋光琳」の落款(サイン)が見られることから、彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、59歳で没するまでの十数年間であると推定されている。光琳の代表作の1つである『燕子花図(かきつばたず)』屏風は、彼の作品中、比較的初期ものとされている。この屏風には「法橋光琳」の落款があるが、「法橋」の2字は別人による書き入れとする説が有力で、この説にしたがえば、『燕子花図』は光琳の法橋位受領以前の作品となる。
光琳は公家、大名、役人など、多くの庇護者やパトロンをもっていた。五摂家の1つ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助(1669 - 1730)とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館蔵)を描いている。光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定した。
[編集] 江戸下向と帰洛
光琳は江戸詰となった中村内蔵助を頼り、宝永元年(1704年)頃、江戸へ下った。この頃の光琳は相変わらず経済的には貧窮していたようである。江戸では姫路藩主酒井家から扶持(ふち)を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあった。現存する「冬木小袖」(東京国立博物館蔵)は、光琳が手描きで秋草文様を描いた小袖で、冬木家に伝来したものであり、『紅白梅図』屏風(MOA美術館蔵)は津軽家に伝来したものである。
光琳は5年ほど江戸に滞在した後、宝永6年(1709年)に京都へ戻っている。正徳元年(1711年)には京都の新町通り二条下ル(二条城の東方)に新居を構え、ここで制作した。この屋敷については建築当時の図面等の資料が残されており、静岡県熱海市のMOA美術館構内に「光琳屋敷」として復元されている。光琳の代表作の1つである『紅白梅図』屏風は晩年の作とされ、この屋敷の2階の画室で描かれたと推定される。
死の3年前の正徳3年(1713年)には、長男の寿市郎に宛てて譲状(遺書に相当する)を書いているが、その文中に光琳は「相究タル家業モ無之(これなく)」と書いている。このことから、光琳が画業を「家業」と見なしておらず、しっかりした家業がないため、息子の寿市郎を他家へ養子に出す決心をしたことがわかる。
[編集] 小西家資料
光琳の長男・寿市郎の養子先の小西家には、光琳および雁金屋に関する文書・史料がまとまって保管されていた。これらは「尾形光琳関係資料」として重要文化財に指定されている(大阪市立美術館と文化庁に分かれて所蔵)。この中には光琳の父・宗謙の遺書、光琳本人の遺書などの文書類のほか、『鳥獣写生帖』などの光琳の写生帖、画稿、意匠図案集などが多数含まれており、光琳の生涯および作品を研究するうえで貴重な資料である。画稿の中には光琳の作品としては唯一のものとされる美人図が含まれていることも注目される。
[編集] 代表作
光琳の作品には、制作年代のはっきりわかる作品は少なく、画風や、画面に捺されている印章などから制作年が推定されている。
光琳と並び称される俵屋宗達は、生没年未詳ながら光琳よりは約1世紀前の人物で、直接的な師弟関係はない。しかし、光琳の絵には『風神雷神図』『槙楓図』のように宗達の原画に基づいて描かれたものがあることから、光琳が宗達に学ぶ意識のあったことは間違いない。
- 絵画
- 燕子花図(かきつばたず) 六曲屏風 根津美術館蔵(国宝)
- 中村内蔵助像 大和文華館蔵 宝永元年(1704年)(重要文化財)
- 太公望図 京都国立博物館蔵(重要文化財)
- 四季草花図巻 個人蔵 宝永2年(1705年)
- 波涛図 二曲屏風一隻 メトロポリタン美術館蔵
- 八橋図 六曲屏風 メトロポリタン美術館蔵
- 風神雷神図 二曲屏風 東京国立博物館蔵(重要文化財) - 俵屋宗達の作品を模したもの。
- 夏草図 二曲屏風 根津美術館蔵
- 孔雀葵花図(くじゃくきかず) 二曲屏風 個人蔵(重要文化財)
- 槙楓図(まきかえでず) 六曲屏風一隻 東京藝術大学大学美術館蔵(重要文化財)
- 群鶴図 六曲屏風 ワシントン、フリーア美術館蔵
- 躑躅図(つつじず) 畠山記念館蔵(重要文化財)
- 竹梅図 二曲屏風一隻 墨画 東京国立博物館蔵(重要文化財)
- 維摩図(ゆいまず) 墨画 個人蔵(重要文化財)
- 秋好中宮図 MOA美術館蔵
- 紅白梅図 六曲屏風 MOA美術館蔵(国宝)
- 工芸品
- 八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ) 東京国立博物館蔵(国宝)
- 秋草描絵小袖(冬木小袖) 東京国立博物館蔵(重要文化財)
- 寿老図六角皿 尾形乾山作陶、光琳絵付け 大倉集古館蔵(重要文化財)
『紅白梅図』屏風の金地(金色の背景)は、金箔を貼ったものと長年信じられてきたが、2003年から翌年にかけての東京文化財研究所の蛍光エックス線による調査の結果、金箔は使用されていないことが判明した。つまり、この作品の金地は金泥(金色の絵具。金粉を膠(にかわ)で溶いたもの)を使って描き、金箔の継ぎ目(箔足(はくあし))をわざわざ描き表したものだったのである。