山名義理
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山名 義理(やまな よしただ 生没年不詳)は室町時代の武将。山名時氏の二男。子に義清、氏親、時理。官称は修理大夫、弾正少弼。美作国・紀伊国の守護。
永和4年(1378年)紀伊国で挙兵した南朝方の橋本正督討伐を命じられ、弟の氏清と出兵。康暦2年(1380年)に橋本正督を滅ぼした。その功により紀伊国に封じられた。
明徳2年(1391年)山名氏の弱体化を図る将軍足利義満の挑発に乗って氏清と甥の満幸が謀叛を決断。氏清は義理の分国紀伊国を訪ねて同心を説得。義理は躊躇するが、氏清の熱弁に圧されて遂に同意する。氏清と満幸は挙兵して、京へ攻め込むが敗れて氏清は討死、満幸は逃亡した。義理は兵を発せずに紀伊国から動かなかった(明徳の乱)。
乱後に義理は義満に謝罪するが、義満はこれを容れず紀伊国と美作国を没収して大内義弘と赤松義則へ与えた。美作国の兵は赤松義則に降伏。明徳3年(1392年)大内義弘は兵1000騎をもって義理が在国している紀伊国へ討ち入った。義理は抗戦を試みるが紀伊国の国人はみな背いてしまった。義理は一族63人とともに舟で脱出して淡路国由良湊まで逃げ込む。この地の興国寺で子の氏親、時理ら17人とともに剃髪して出家した。