山崎直方
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山崎 直方(やまさき なおまさ 明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は日本の地理学者。高知県の生まれ。日本の近代期の地理学の功労者でしばしば「日本における近代地理学の父」として称えられている。姓はやまざきとも読まれがちだが、やまさきが正しい。専門は、地形学であるが人文地理学でも功績がある。
小藤文次郎の指導の下、東京府尋常中学校、第一高等中学校を経て、1895年に帝国大学理科大学(現・東京大学)の地質学科を卒業。(同じ門下生に京都大学の地理学教室創設者・小川琢治がいる。)、1897年に第二高等学校(現・東北大学)の地質学の教授に就任。1898年から1901年までドイツ・オーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のJ・J・ラインやペンクに指導を受ける。当地から当時先端の地理学を学ぶ。帰国後、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現・筑波大学)の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。 1916年には地質学教室の下に地理学科を設置。(日本では京大に次いで2番目)地理学に独自の道を築く。(この影響により現在でも東京をはじめとした関東エリアの国公立の地理学教室は理学部系統に置かれている事が多い。京大を中心とした関西勢が歴史学教室の元に置かれ、文学部系統に置かれているのと対照的である。これにより関東勢は当初は自然地理学の影響が強かったといわれている。現在ではそのような不整合はなくなり関東、関西ともに人文・自然共に均等な配分となっている。)
1902年には論文「氷河果たして本邦に存在せざりしか」を発表し、日本の氷河地形研究の礎を築いた。またアメリカの地形学者デーヴィスの地形輪廻説を日本に最初に紹介したのも山崎である。また1912年に発表されたウェゲナーの大陸移動説は、日本のみならず欧米の研究者の中でも否定的な見解が支配的な中、山崎は率先してこれを評価し日本に導入しようとした重要な人物の一人であった。人文地理学にも敬意を払い、1915年のエルズワース・ハンチントンの「文明と気候」を 日本に紹介した。
しかし山崎の一番の功績は、なんと言っても1925年に、地理学独自の学術団体として日本地理学会を創設したことである。地学分野の一分野としての地理学から、単独の学問分野としての地理学に成長させたことに大きな功績を残した。また、山崎カールの発見や日本の氷河期地形、日本アルプス研究などでも名高い。
彼の門下生に、辻村太郎や田中啓爾らがおり、日本のアカデミーな地理学の形成に大きな功績を残した人物も多く、彼の地理学に対する影響力は多岐にわたっている。
1929年に59歳で死去。