島崎蓊助
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島崎蓊助(しまざき おうすけ、1908年12月17日 - 1992年3月11日)は、昭和時代の画家、共産主義運動家。父は作家の島崎藤村、兄は同じく画家の島崎鶏二。
藤村の三男として長野県に誕生する。しかし、2歳の時に母が死去、伯母に当たる藤村の姉の元に引き取られ、父親の私生活も乱れる(藤村の項目参照)など不幸の内に成長する。14歳の時、兄・鶏二が川端画学校への進学を決めたとき、父の命により同行させられることを決定される。上京後は兄と共に画学校に通う中、村山知義と知り合いプロレタリア美術運動に参加、次第に共産主義運動への関心を高めていく。1929年にドイツ・ベルリンへ留学するが、千田是也らと共にもっぱら共産主義運動に熱中していた。しかしナチス党の台頭により次第に活動は困難を究め、1933年帰国[1]。1944年応召され、陸軍報道部員として中国戦線に送られる。前線では主に戦場のスケッチを描く作業に従事していた。
戦後、父の世話をしていた兄・鶏二が戦死していたため、父の残した膨大な資料や未発表の原稿の整理に追われる羽目となる。1970年になってようやく『藤村全集』編纂へのめどが立ち、画業に復帰、1971年に東京都日本橋の柳屋画廊にて初めての個展を開く。ところが、これが生涯で最初で最後の個展となり、以後も制作は続けていたが何故か公式には全く発表することなく、主に『歴程』で宗左近らのスポンサーとして裏方の活動を続けた。
死後ももっぱら共産主義運動家としての評価が高かったが、近年、ようやくその画業についても再評価する活動が始まっている。
[編集] 脚注
- ^ 性格的に共同作業が多い共産党運動に向いておらず、千田らに見捨てられるような形で居場所を失い、金銭的にも事欠いて帰国に追い込まれたという説もある。
[編集] 関連書籍
- 『島崎蓊助自伝 父・藤村への抵抗と回帰』平凡社 ISBN 978-4-582-83116-0