嶋原
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嶋原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街。正式名称は西新屋敷で6つの町(上ノ町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。
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[編集] 沿革
嶋原の歴史は古く、日本で最初の公許された花街であり室町時代に「九条の里」という傾城局が設置されたのが始まりだといわれる。桃山時代に二条万里小路に花街が豊臣秀吉によって移されたといい、江戸時代になると六条付近にうつされ、「六条三筋町」と称され吉野太夫等の名妓が輩出した。しかし、あるトラブルで朱雀野付近に強制移住させられ、このことからあたかも島原の乱に似ていたため以後「嶋原」と呼ばれるようになったという説と、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説がある。周りは堀に囲まれ、「廓」と呼ばれるようになった。最盛期は元禄期で、その後幾度かの盛衰を繰り返し幕末には新選組が利用するだけになっていた。これは立地条件が悪く大半の人々は祗園町、祗園新地、上七軒等の花街を利用していたためである。明治以後は「太夫道中」などの行事で支えていたが、昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がわずかにその面影をとどめているだけである。
戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫(二代目)、高砂太夫、九重太夫、薄雲太夫、若雲太夫、 花琴太夫 等。 現在、太夫は4人で花扇太夫、司太夫、春日太夫、如月太夫と、もう一人振袖太夫(太夫の見習い、振袖を着る)がいる。
[編集] 文化
嶋原は世間では遊廓と語られがちだが実は文化レベルの高い花街であることがわかる。日本で唯一残る揚屋建築である『角屋』は嶋原が高度な花街である証を見せている。嶋原に彩りを添える主役が太夫である。太夫は従五位の位を持つほどの格式と教養に長けた芸妓の最高の地位である(例えば、舞踊なら名取、師範に成れる位)。八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、 大橋太夫、桜木太夫などの名妓を輩出している。
嶋原の太夫は、必ずお歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい、また公家文化の影響とも 考えられる)。又、鬘を被らず、必ず地毛で「男元禄」「立兵庫」、「長船」、「勝山」、等の各種の日本髪(髪型の種類がかなり多い)を結う。
注意:嶋原の太夫は体を売らなかったので芸妓であって遊女ではない、とされる。
[編集] 文献
- 石原哲男『京・嶋原太夫』京都書院、1991年
- 溝縁ひろし『京舞妓歳時記 溝縁ひろし写真集』東方出版、1995年8月、ISBN 4885914361
- 花扇太夫『太夫になった京おんな』白馬社、2004年11月、ISBN 4938651505
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 嶋原太夫と輪違屋 嶋原太夫・司太夫公式ホームページ
- 嶋原太夫・花扇太夫公式ホームページ
- 日本髪の世界
- 京都物語 第九話 京の太夫さん
- 元嶋原太夫・高砂太夫公式ホームページ
- 元嶋原・高砂太夫のお店「こったい」
- 京都のかむろちゃん
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