平康頼
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平康頼 (たいらのやすより 生没年不詳)は平安時代後期の貴族。平頼季の子。
検非違使となり、平判官と称した。 1177年、藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密議に参加。その酒席で瓶子(へいし)が倒れるのを「平氏が倒れた」と喜んでいた。密告によりことが漏れて康頼も捕縛される。俊寛、藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。(鹿ケ谷の陰謀)。
『平家物語』によると、信仰心の厚かった康頼は流罪にあたり出家入道した。京を懐かしむ日々の中で成経と康頼は千本の卒塔婆をつくり海に流すこと思い立つ。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。
1178年に赦免船が来て成経とともに赦免され京へ戻る。帰京後は仏教説話集『宝物集』を記し、1186年には源頼朝の推薦により阿波麻殖保司の職に就く。