野間大坊
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野間大坊 | |
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![]() 境内にある源義朝の墓 石塔の周りには無数の木刀が供えられている |
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所在地 | 愛知県知多郡美浜町野間東畠50 |
位置 | 北緯34度46分15.16秒 東経136度51分10.63秒 |
山号 | 鶴林山(かくりんざん) |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 1.伝・天武天皇時代(673年~686年) 2.再興:承暦年間(1077年~1081年) |
開基 | 1.伝・役小角 2.再興:白河天皇(勅願) |
正式名 | 鶴林山 無量寿院 大御堂寺 |
別称 | |
札所等 | 東海三十六不動尊21番 知多四国八十八箇所50番(大御堂寺)・51番(野間大坊) 尾張三十三観音8番 |
文化財 | 梵鐘、絹本着色義朝最期図・頼朝先考供養図(重要文化財) 客殿(愛知県指定文化財) |
野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
目次 |
[編集] 起源と歴史
『大御堂寺縁起』には、天武天皇の時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が建立、聖武天皇の時代に僧行基により中興されたと伝えられる。その後空海(弘法大師)が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれる。
寺に伝わる室町時代の天文3年(1534年)の再興勧進帳に記載された縁起によると、承暦年間(1077年~1081年)に白河天皇の勅願寺となり、このとき「大御堂寺」と称せられたという。以上の伝承には確証はなく、実際は源義朝の菩提を弔うために建てられた寺であると思われる。
『吾妻鏡』文治2年(1186年)閏7月22日条には、源義朝の墓に関する次のような記述がある。平康頼(『平家物語』の「鹿ヶ谷の陰謀」の登場人物として著名)は尾張守として任地にあった時、野間庄にある源義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田30町を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせた。義朝の子である源頼朝はこの功績に応え、平康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたという。同じ『吾妻鏡』の建久元年(1190年)10月25日条には、上洛途上の源頼朝が、この日、野間庄にある父義朝の墓に詣でたことが記されている。荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な寺が建ち、供養されていることに感心した。寺伝ではこの時に頼朝が父の菩提のためを寄進を行い、伽藍を整備し、自らの守本尊である地蔵菩薩像を安置したという。時代が下ると、豊臣秀吉・徳川家康の庇護を受けてさらに発展、現在に至る。
現在、源頼朝が造営させたという大門や、鎌倉幕府第5代将軍藤原頼嗣の寄進による梵鐘などが現存している。梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。
[編集] 源義朝の最期
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた源義朝は、随行していた鎌田政清の舅であった長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされる。
野間大坊にある源義朝の廟には、この故事に因んで、木刀が山のように供えられている。また義朝の首を洗ったとされる「血の池」は、国に異変があると、赤く染まると言われている。
2005年の「NHK大河ドラマ 義経」でも、取り上げられた。
[編集] 伽藍
- 本堂 - 宝暦4年(1754年)建立
- 客殿(愛知県指定文化財)
- 大門 - 源頼朝建立の伝承をもつ。
- 鐘楼堂
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財
[編集] その他
- 客殿 - 愛知県指定文化財
- 地蔵菩薩像 - 源頼朝の守本尊と伝える
境内には源義朝墓のほか、義朝の家臣鎌田政清夫妻の供養塔、寺を整備した平康頼の供養塔があり、豊臣秀吉に敗れて当寺で自害した織田信孝の墓もある。
[編集] 札所
- 知多四国八十八ヶ所霊場の51番札所。なお、大御堂寺が50番、野間大坊が51番とされており、同じ境内に2つの札所が存在する。
- 尾張三十三観音8番札所
[編集] 所在地
愛知県知多郡美浜町野間東畠50