平頼盛
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平 頼盛(たいら の よりもり、天承元年(1131年) - 文治2年6月2日(1186年6月20日))は、平安時代の武将。平忠盛の五男。通称は池殿、池大納言。清盛の弟。
平治の乱時に生母の池禅尼が源頼朝の命を助けた事により、平家滅亡後も本領を安堵される。また、後白河法皇の信頼が厚く、法皇の処遇を巡って頼朝挙兵以前から兄・清盛とは不仲だったという(治承3年(1179年)のクーデター事件の際、平家一門でありながら清盛によって排斥された「反平家」公卿の一員に挙げられている)。
このため、『平家物語』では、頼盛が西国に落ちなかった事を非難しているのに対して、『愚管抄』では、頼盛に同情的である。また、『平家物語』では保護を求める頼盛を冷たくあしらっている八条院が、実際には表で拒絶しながらも密かに頼朝や木曾義仲に頼盛助命を嘆願したとも言われている(八条院の乳母子が頼盛の妻であった)。
なお、池禅尼による頼朝の助命嘆願から北条時政の監視・保護に至る経緯について、時政の後妻である牧の方の父宗親が池禅尼の弟藤原宗親と同一人物であり、清盛と不仲であった頼盛が、頼朝の身柄を保持し続けたという近年の研究がある。更に発展して、頼盛を鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人として、平家滅亡後の本領安堵についても頼朝により改めて「隠れ御家人」として安堵されたものとする岡野友彦氏の説もある。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1146年(久安2)4月11日、皇太后宮権少進に任官。
- 1147年(久安3)8月21日、蔵人に補任。 10月14日、従五位下に叙位。蔵人如元。
- 1149年(久安2)6月4日、常陸介に遷任。 6月12日、従五位上。常陸介如元。
- 1153年(仁平3)1月5日、正五位下に昇叙。常陸介如元。
- 1156年(保元元) 保元の乱おこる。 閏9月22日、安芸守に転任。
- 1157年(保元2)1月24日、右兵衛佐兼任。 10月22日、従四位下に昇叙。安芸守・右兵衛権佐如元。 10月27日、中務権大輔に転任。
- 1158年(保元3)8月10日、常陸介兼任。 10月3日、三河守兼任。 11月26日、従四位上に昇叙。中務権大輔・常陸介・三河守如元。
- 1159年(平治元) 平治の乱おこる。 12月27日、尾張守兼任。
- 1161年(永暦2)2月28日、正四位下に昇叙。中務権大輔・常陸介・三河守・尾張守如元。 4月7日、太皇太后宮亮兼任。 10月29日、右馬頭兼任。中務権大輔・太皇太后宮亮・尾張守如元。
- 1162年(応保2)4月7日、内蔵頭兼任。右馬頭・太皇太后宮亮・尾張守如元。 7月17日、修理大夫に転任。太皇太后宮亮・尾張守如元。
- 1163年(応保3)1月24日、尾張守辞任。
- 1166年(永万2)7月15日、大宰大弐兼任。 8月27日、従三位に昇叙。修理大夫・大宰大弐両官如元。 10月21日、皇太后宮権大夫兼任。
- 1167年(仁安2)1月28日、正三位に昇叙。修理大夫・大宰大弐・皇太后宮権大夫如元。
- 1168年(仁安3) 皇太后宮権大夫辞任。修理大夫・大宰大弐両官如元。 7月3日、右兵衛督兼任。 10月18日、参議。右兵衛督・大宰大弐如元。 11月28日、参議・右兵衛督・大宰大弐辞任。
- 1169年(仁安4)12月30日、参議還補。
- 1170年(嘉応2)1月18日、尾張権守兼任。 7月26日、右兵衛督兼任。
- 1175年(承安5)1月22日、遠江権守兼任。尾張権守を去る。
- 1176年(安元2)12月5日、権中納言に転任。右兵衛督如元。
- 1179年(治承3) 甥重盛没。 1月19日、左兵衛督兼任。右兵衛督去る。 10月19日、右衛門督兼任、左兵衛督去る。 11月17日、右衛門督止む。
- 1180年(治承4) 甥宗盛、名目上の棟梁となる。 4月11日、従二位に昇叙。権中納言・右衛門督如元。 6月4日、正二位に昇叙。権中納言・右衛門督如元。
- 1181年(養和元) 兄清盛没。
- 1182年(養和2)3月8日、陸奥出羽按察使兼任。 10月3日、中納言に転任。 10月7日、陸奥出羽按察使兼任。
- 1183年(寿永2)4月5日、権大納言に転任。 4月9日、陸奥出羽按察使兼任。 8月6日、解官。
- 1184年(文治元)6月5日、正二位復位。権大納言還任。 12月20日、権大納言辞任。
- 1185年(元暦2)5月29日、出家。