広瀬淡窓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広瀬淡窓(ひろせたんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、漢詩人、教育者。豊後国日田の人。淡窓は号。本名は建。字は子基。大分県知事広瀬勝貞は子孫。
[編集] 経歴
幼少のころ体が弱く、家業を継ぐことができなかったため、長男であるにもかかわらず家業は弟に譲った。このころ、医師である伯父によって命を救われたため、一度は医師になることを志すが、伯父の言葉によって断念する。その後、学問を志し、筑前国の亀井南冥、亀井昭陽父子に師事した後、塾を辞め独学する。
1805年、郷里である豊後国日田に私塾を開き、桂林荘とする。1817年、塾を堀田村(現大分県日田市)に移し、咸宜園とする。咸宜園では当時としては珍しく、塾生はそれまでの経歴や身分、年齢にかかわらず実力のみで評価される制度がとられた。咸宜園は淡窓の死後も1897年まで存続し、弟の広瀬旭荘や林外、青邨等によって運営された。塾生は全国各地から集まり、入門者は4000人を超える日本最大級の私塾となった。
咸宜園の主な門下生としては、淡窓の代には蘭医の高野長英、同じく蘭医岡研介、軍政家の兵部大輔大村益次郎、写真術の元祖上野彦馬、儒者中島子玉、太政官書記官・東京府知事松田道之、勤皇家で文部大丞長三州、岩手県令・茨城県令元老院議員島惟精、内務次官・貴族院議員中村元雄、歌人大隈言遺、画家帆走杏雨、詩・書・画で有名な僧侶平野五岳などであり、淡窓以後の代では大審院長横田国臣、首相清浦奎吾、海軍軍医総監河村豊州、三井系実業家朝吹英次、東京女子師範学校長・貴族院議員秋月新太郎などがあげられる。
淡窓は晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった。淡窓は1856年に75歳で死去した。
主な著書には、「淡窓詩話」や「遠思楼詩鈔」などがある。
[編集] 研究
淡窓の思想として有名なのは「敬天」である。人間は正しいこと・善いことをすれば天(朱子学においては「天」と「理」は同じものであるが、淡窓の考える「天」は「理」とは別の存在であり、「理」を理解すれば人間は正しい行いをして暮らすことができる、しかしその「理」を生む「天」は理解することができない、とする)から報われる、とする。淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」といわれ、戦後から80年代まで主に研究されていた。最近では、淡窓の私塾である咸宜園を実力主義の教育システムとしての研究や、淡窓の漢詩に対しての研究が主になっている。
大分県日田市には淡窓の名を冠した「淡窓1丁目」や「淡窓図書館」がある。淡窓図書館は、以前は咸宜園跡の北隣に位置していたが、現在は700mほど東の上城内町にある。
[編集] 参考文献
- 田中加代『広瀬淡窓の研究』ぺりかん社、1993年。