後藤寿庵
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後藤寿庵(ごとうじゅあん、天正5年(1577年)? - 寛永15年(1638年)?)は江戸時代初期のキリスト教信者(キリシタン)。伊達政宗の家臣。一説には葛西氏の旧臣。
大阪冬の陣・大阪夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めた。
見分村(岩手県奥州市)1200石を給される。寿庵は原野だった見分村を開墾しようと、大規模な用水路を造った。これが「寿庵堰」であり、現在もその跡が残る。
寿庵は熱心なキリシタン領主であり、天主堂・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れたという。
しかし、徳川家光の代になってキリスト教の禁止が厳しくなり、伊達政宗も取り締まりを命ぜられた。政宗は、有能な家臣である寿庵を惜しみ、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとした。しかし寿庵はこの条件を拒み、南部藩に逃亡したとも、秋田藩に渡って果てたとも伝えられる。
大正3年(1923年)、治水の功により従五位が贈られた。昭和6年(1931年)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月11日に寿庵祭が行なわれている。