徳川治貞
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時代 | 江戸時代 | |||
生誕 | 享保13年2月16日(1728年3月26日) | |||
死没 | 寛政元年10月26日(1789年12月12日) | |||
改名 | 春千代(幼名)、松平頼淳(西条藩主時代) | |||
戒名 | 香嚴院殿三品前黄門心齋圓通 | |||
墓所 | 長保寺 | |||
官位 | 従四位下左近衛権少将兼修理大夫、 従三位参議、右近衛権中将、 従三位権中納言 |
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藩 | 伊予国西条藩主、紀伊国紀州藩主 | |||
氏族 | 紀州徳川家 | |||
父母 | 父:徳川宗直、母:外山氏 養父:松平頼邑 |
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兄弟 | 宗将、治貞、信有 | |||
妻 | 正室:今出川誠季の娘・千穂君定子 | |||
子 | 実子なし、養子:徳川治寶、松平頼謙 |
徳川 治貞(とくがわ はるさだ、享保13年2月16日(1728年3月26日) - 寛政元年10月26日(1789年12月12日))は江戸時代の西条藩第5代藩主、のち紀州藩第9代藩主。名君の誉れ高い熊本藩第8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれた。第6代紀州藩主徳川宗直の次男。
幼名は春千代で、寛保元年(1741年)に名を松平頼淳(よりあつ)と改める。紀州藩の支藩である伊予国西条藩第4代藩主松平頼邑の養子となる。宝暦3年(1753年)に西条藩第5代藩主となる。安永4年(1775年)に第8代藩主徳川重倫が隠居すると、わずか5歳の岩千代(後の第10代藩主徳川治寶)に代って藩主となり名を治貞と改める。なお、西條藩主は甥の松平頼謙が嗣いだ。第8代将軍徳川吉宗の享保の改革にならって、藩政改革をおこなった。
[編集] 官職位階履歴
- 1741年(寛保元)12月19日、伊予国西条藩主の松平頼邑の養子となり、元服し、松平頼淳と名乗る。従四位下左近衛権少将兼修理大夫に叙任。
- 1747年(延享4)9月27日、玄蕃頭に遷任。左近衛権少将如元。
- 1753年(宝暦3)7月、家督相続し、西條藩主となる。8月4日、左京大夫に転任。左近衛権少将如元。
- 1775年(安永4)2月3日、紀伊国紀州藩主徳川重倫の養子となり、家督相続し、紀州藩主となる。将軍徳川家治の諱を一字賜り、治貞と名乗る。2月22日、従三位に昇叙し、参議に補任し、右近衛権中将を兼任。
- 1776年(安永5)2月15日、権中納言に転任。
- 1789年(寛政元)10月26日、薨去。享年62。法名:香嚴院殿三品前黄門心齋圓通。
[編集] TV番組
平成6年(1994年)4月から10月にかけて、テレビ朝日系列で『殿さま風来坊隠れ旅』という番組が放送された。これは紀伊藩主徳川治貞(三田村邦彦)と尾張藩主徳川宗睦(西岡徳馬)が主役の勧善懲悪時代劇で、もちろんフィクションである。しかし、一般にはあまり知られていなかった徳川治貞の名が全国に知れ渡る一助となった。
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