徳川宗直
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徳川 宗直(とくがわ むねなお、天和2年7月25日(1682年8月27日) - 宝暦7年7月2日(1757年8月16日))は、伊予西条藩の第2代藩主、のち紀伊紀州藩の第6代藩主。父は松平頼純。母は太田氏(観樹院)。官位は従二位大納言。
幼名は甚太郎、西条藩主時代は松平頼致を名乗る。正徳元年(1711年)11月、頼純の後を継いで伊予西条藩主となったが、正徳6年(1716年)に本家の紀州藩主・徳川吉宗が第8代将軍に就任したため、徳川頼宣の孫に当たる宗直が紀州藩の家督を継ぐこととなった。藩財政再建のため、藩札発行や銅銭鋳造などに尽力したが、あまり効果は無かった。宝暦7年(1757年)7月2日、江戸中屋敷にて死去し、後を長男の徳川宗将が継いだ。なお、西条藩主は宗直の弟・松平頼渡が嗣いだ。
紀州藩主でありながら正室を生涯持たず、側室を11人も置いた。その結果、六男十女という子女に恵まれ、宗将の他に次男の徳川治貞も第9代藩主として就任している。五男の信有は、松平信友の養子となり上野吉井藩主となった。次女の利根姫は伊達宗村室となり、四女の友姫は細川宗孝室となり、五女の久姫は池田宗泰室となり、六女の賢姫は前田重靖と婚約し、重靖が没した後に松平頼済室となり、八女の達姫は丹羽高庸室となり、九女の相姫は京極宮公仁親王妃となり、十女の薫姫は松平頼真室となった。
[編集] 官職位階履歴
- 1682年(天和2年)7月25日、誕生。江田の苗字を称し、太郎助と名乗る。後、甚太郎と改名。
- 1692年(元禄5年)12月3日、松平の苗字を称し、儀大夫頼致と名乗る。
- 1706年(宝永3年)
- 10月11日、伊予国西条藩主の世継ぎとなる。
- 12月19日、従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任。
- 1711年(正徳元年)
- 11月、家督相続し、藩主となる。
- 12月1日、玄蕃頭から左京大夫に転任。侍従如元。
- 1712年(正徳2年)12月15日、左近衛権少将に転任。左京大夫如元。
- 1716年(正徳6年)4月30日、紀伊国紀州藩主となり、徳川の苗字と称することが許される。
- 1716年(享保元年)
- 7月5日、従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任。征夷大将軍宣下(同年8月13日)待ちの徳川吉宗の諱を一字賜り、宗直と名乗る。
- 12月18日、参議に補任。
- 1717年(享保2年)12月1日、権中納言に転任。
- 1741年(寛保元年)8月7日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
- 1757年(宝暦7年)7月2日、薨去。享年76。法名:大慧院殿二品前亜相普観徹性台。
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