享保の改革
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享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸幕府の八代将軍、徳川吉宗の在任期間中の1716年から1745年に行われた幕政の改革のこと。財政安定策が主眼であった。 寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つである
享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に行われた幕政改革。八代将軍徳川吉宗が主導した諸改革で、在任期間(1716‐1745)の年号に由来する。宗家以外の御三家紀州徳川家から将軍に就任した吉宗は先例格式に捉われない改革を行い、寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つと呼ばれる。財政安定策が主眼であった。
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[編集] 主な改革
[編集] 幕府権力の確立と都市政策
人事面では将軍家宣、家継時代に正徳の治を主導した新井白石、間部詮房を解任し、紀州藩人材を多く幕臣に登用。将軍指導力の確立を図り、紀州藩士による御庭番を創設し、江戸の都市政策を行う一方で庶民の要求や不満の声を直接訴願の形で募るための目安箱を設置。また、廃止されていた鷹狩を復活させる。
江戸の都市政策は江戸町奉行の大岡忠相が主導し、町奉行所や町役人を機構改革を行う。防火対策は町火消し組合の創設に留まらず、防火建築の奨励や日除地の設定、町代の廃止や町名主の減員など、町政改革を伴うものであった。米価や物価の安定政策、貨幣政策。下層民対策では、目安箱の投書から貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置。諸藩にも踏襲される。私娼や賭事、心中など風俗取締りや出版統制。
[編集] 国家政策・公共政策
倹約と増税による財政再建。農政の安定政策として年貢を強化して五公五民に引き上げ、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図る。河川普請や、越後紫雲寺潟新田や淀川河口の新田などの新田開発を行う。助郷制度の整備。米価の調整は不振に終る。青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じ、朝鮮人参や菜種油などの商品作物を奨励、薬草の栽培。日本絵図作製、人口調査。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策。サクラやモモなどの植林。
各地位ごとに授与される給与を定め、これが給付される期間を地位についている時のみとした。
松平乗邑を主任に寺社奉行、町奉行、勘定奉行を中心に編纂させた幕府の基本法典。 判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集。
- 堂島米市場の公認
- キリスト教に関係のない洋書輸入を解禁
- 上米の令
諸藩に1万石につき100石の割合で一時的に課した献上米。代償に参勤交代の際の江戸在府期間を1年から半年に緩和する。
- 相対済令
旗本、御家人と札差との間の金銭貸借についての訴訟(金公事)の訴訟を認めず当事者間の話し合い(相対)による解決を命じた(但し、金利の付かない貸借や同法を利用した踏み倒し行為は例外とされた)。これには、金銭絡みの訴訟の急増によって、他の訴訟や刑事裁判までが停滞したという事情もあった。
[編集] 略年譜
- 1717年(享保二) 新金銀交換を強制(享保小判金)
- 1719年(享保四) 相対済令(11年後に実質廃止)
- 1720年(享保五) 江戸大火を受け、江戸町火消しいろは47組を設置
- 1720年(享保五) キリスト教に関係のない洋書輸入を解禁する
- 1721年(享保六) 目安箱を設置、流地禁止令
- 1721年(享保六) 流地禁止令(2年後廃止)
- 1722年(享保七) 足高制を導入
- 1722年(享保七) 小石川養生所設置
- 1722年(享保七) 上米の制(9年後廃止)
- 1722年(享保七) 三分一米納令
- 1722年(享保七) 定免法を導入
- 1722年(享保七) 江戸町方公役銀納令
- 1725年(享保一〇) 口米永代蔵令
- 1728年(享保一三)「五公五民制」を導入(幕府創設以来の「四公六民制」の放棄)
- 1730年(享保一五)諸大名に対して買米令を出す(翌年には大坂商人達にも同様の命令を出す)
- 1735年(享保二〇)田方勝手作仕法(田畑勝手作禁止令の事実上の見直し)
- 1736年(元文元) 再度の改鋳(元文改鋳、享保の改鋳政策の放棄)
- 1742年(寛保二) 公事方御定書制定
- 1744年(延享元) 神田に天文台設置名和
[編集] 影響
幕府財政が安定させたという点評価され、その後に同じく緊縮財政を機軸とした寛政の改革、天保の改革の手本ともなった。だが、一方で年貢増徴など農民に負担を強いる政策が行われた事、幕府創業時あるいは(幕府政治の再建に熱心であった)5代将軍綱吉時代初期を範と考える余りに現実の社会の流れに一部で逆行する政策を取った見られた事(「流地禁止令」のように数年で廃止せざるを得ない法令も出た)、更には享保年間中期以後は財政再建や物価対策を急ぐ余りに「一時凌ぎ」的な法令を濫発した事(「元文の改鋳」のように、改革初期の政策を否定した政策も多数執られた)などは、却って幕府・将軍の権威を弱め、社会的な矛盾を後々に残す結果となった。事実、年貢を家宣・家継時代の平均2割7分6厘の負担から5割に引き上げた結果、人口の伸びは無くなり一揆も以前より増加傾向になっているのである。
尚、幕府の重臣・旗本・諸大名の間で日常的に行われ、江戸時代全体を通じた社会問題だった贈収賄の取り締まりに、吉宗自身が将軍としては初めて手をつけていた事は、意外と知られていない。また、賤民層に対しては、居住や服装等に制限を設け、農工商との接触を禁止する等、厳しい差別政策を以って臨んでいる。
[編集] 関連項目
- (いずれも、『享保の改革』を舞台にしている)