戸田忠至
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戸田 忠至(とだ ただゆき、文化6年8月11日(1809年9月20日) - 明治16年(1883年)3月30日)は、江戸時代後期・末期から明治時代前期にかけての下野国宇都宮藩の重臣。後に下野国高徳藩初代藩主となる。父は宇都宮藩の重臣・戸田忠舜。母は利津。正室は中島六郎の娘。子に戸田忠綱、戸田忠友室、秋元礼朝室、大岡忠貫室。官位は大和守従五位下。後に従三位を経て贈従二位。
通称は方之丞。嘉十郎。初名は間瀬和三郎。父・忠舜は宇都宮藩八代藩主戸田忠翰の弟であり、九代戸田忠明や十代戸田忠恕を重臣として補佐していた。忠至は、戦国時代以来譜代の宇都宮藩重臣間瀬氏の名跡を継いで間瀬和三郎と名乗り、藩の用人や番頭職を歴任した。弘化元年(1844年)に家老となる。文久2年(1862年)、幕府より天皇陵補修の許可を受けた藩主・忠恕の命を受けて、その任に当たる山陵奉行に任じられ、戸田姓に復する。同年、朝廷から諸大夫格(従五位下格)を許され、大和守を名乗る。忠至は元治元年(1864年)末までに、畿内における山稜修補の全てを成し遂げている。この忠至の働きに対し、朝廷は幕府に対して忠至を大名として取り立てるように要請し、幕府も忠至を大名として取り立てようとした。しかし、この時には忠至自身が固辞したため取立は実現しなかった。
元治元年(1864年)、水戸藩において武田耕雲斎や藤田小四郎らによる天狗党の反乱が起こったとき、天狗党の一部が宇都宮藩に援助を求めてきた。藩主・忠恕はこれを拒絶したが、天狗党の一味を弾圧することも無かったため、乱後、幕府から宇都宮藩が天狗党と結託していたと見なされてしまい、処罰として宇都宮から陸奥国棚倉藩への減移封を命じられそうになった。このとき、忠至は朝廷に働きかけてこの移封を取りやめさせることに成功している。これは朝廷が、忠至の山稜修補における功績を認め、孝明天皇や三条氏らが幕府に働きかけたためであった。
慶応2年(1866年)3月、藩主・戸田忠友(忠恕の養嗣子)は忠至のそれまでの功績を認めて1万石を分与して忠至に別家を立てさせ、忠至は高徳に陣屋を置き立藩するに至った。明治2年(1869年)に隠居し、家督を子の忠綱に譲った。明治16年(1883年)、75歳で死去。
『名将言行録』においては、忠至は周囲に気配りができる人物であり、人柄は温厚。人望もある宇都宮藩に欠かせない名臣である、と評されている。
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