新義真言宗
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基本教義 |
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
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経典 |
聖地 |
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新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は弘法大師空海を始祖とする真言宗の宗派の一つで、真言宗中興の祖興教大師覚鑁(かくばん)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜が確立した宗派である。高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。よってそれまでの真言門派を「古義真言宗」というが、決して古い教えというわけでなく、「新義」に対してのそれまでの解釈であるから、新義といっても「古義」という呼称は相応しいものではない。簡単にいえば、覚鑁の流れを汲む門派を「新義真言宗」と総称する。
広義では、総本山根来寺を総本山とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含め、真言宗内寺院の約半数が新義真言宗に属する。狭義では、根来寺を本山とする宗派である「新義真言宗」を指す。
従来の真言宗では(いわゆる古義真言宗)では本地身説法(真言宗最高仏である大日如来が自ら説法するとする説)を説くのに対して、新義真言宗では加持身説法(大日如来が説法のため加持身となって教えを説くとする説)を説くことが大きな違いである。信者にとっては全く関係のない次元で教義論争が続いてきた。
[編集] 歴史
平安時代、僧侶の堕落停滞による真言宗没落の危機が発生し、真言宗総本山金剛峯寺の高僧だった覚鑁が宗派建て直しの緊急策を敢行。しかし現状維持を望む保守派と覚鑁派による決定的な対立が発生、その結果覚鑁派は高野山を去り、根来山に同派の中心教務所である大伝法院や密厳院を移して根来寺を開基、覚鑁は教義を刷新して真言宗中興に尽力した。
1143年の覚鑁入寂後、同派僧侶の頼瑜を中心とした覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻したが確執は収拾せず、145年後の1288年、同派の実質的指導者であった頼瑜は門弟を連れて根来山に戻ると共に覚鑁の教義を発展させ、新義真言宗を確立する。
後年、根来寺は規模が拡大し僧兵による武力強化が著しく、不穏分子と判断した豊臣秀吉は1585年春、遂に大軍で根来山を攻撃、根来寺は完全に破壊され多くの僧侶は処刑された。寺宝はおろか、かつて「教学の山・根来」とまで称された多くの新義文献も灰燼に帰し、新義真言宗は事実上壊滅状態となった。しかし混乱の中、一部の僧侶は長谷寺や智積院の寺院に逃げ難を逃れた。秀吉の宗教政策は総本山根来寺を智山派・豊山派に二分し、勢力を分散させ一大宗教都市根来を衰退させることにあった。江戸時代には復興が許されたものの分散させられた僧侶は根来に戻ることは少なかった。
江戸時代、紀伊徳川家の恩赦を受けて新義真言宗は復興を果たし、根来寺の再興と共に覚鑁は東山天皇より「興教大師」の称号を追贈された。