日宋貿易
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日宋貿易(にっそうぼうえき)とは、日本と中国の宋朝(南宋)の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止されて以来の日中交渉。
貿易は朝鮮半島の高麗を含めた三国間で行われ、日本では越前国敦賀や、鎌倉時代には多くの宋人が住み国際都市となった博多が拠点となる。
960年(天徳4)に成立した宋(960‐1279)は貿易を振興し、各地に市舶司を設置し、日本、朝鮮や南海貿易を行った。日本では貿易は大宰府が監督し、鴻臚館貿易が行われていたが、平安時代には大宰府の機能は残っていたものの、大宰府は衰微する。日中間の正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は禁止され、宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航し、私貿易が行われていた。
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈し、近臣として認められるようになった。平氏政権が成立し、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する銀などを輸出品に貿易を行い、平治の乱の後の1158年に大宰大弐となった平清盛は貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握。航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(神戸)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。一方で、宋銭の大量流入による物価高騰や、唐朝滅亡以来の異国に対する社会不安なども起こっている。
平氏政権が滅亡し、鎌倉時代には正式な国交は無かったが、鎌倉幕府は民間貿易を認め、鎮西奉行が博多を統治し、幕府から御用商船を派遣するようになった。貿易は南宋末期まで行われ、武士層が信仰した禅宗は北条得宗家も保護していたため、民間の渡来僧は貿易船に便乗して来日し、モンゴルによる南宋攻撃が本格化しても往来は持続している。
南宋との経済交流は蒙古襲来(元寇)へも影響し、南朝の滅亡後も延長として日元貿易が行われているが、史料上にも乏しくなり、中国商人の日本居住が困難になっていたと考えられている。
[編集] 輸入・輸出品
日本へは宋銭、陶磁器や絹織物、書籍や文具、香料や薬品、絵画などの美術品などが輸入された。日本からは銅や硫黄などの鉱物や周防など西国で産した木材、日本刀などの工芸品が輸出された。日本に輸入された宋銭は、日本社会における貨幣利用の進展に役立ち、仏教経典の輸入は鎌倉仏教にも影響を与える。