景山龍造
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景山 龍造(かげやま りょうぞう 文化14年(1817年)4月 - 明治5年(1872年)8月18日 9月20日))は日本の武士・鳥取藩士、儒者。幼名は礼太郎。諱は守正。字は雍卿。号は道村。従五位。
[編集] 年譜
- 1817年4月:伯耆国会見郡中野村(現・鳥取県境港市中野町)に医師 景山粛(2代目木島立碩)の子として生まれる
- 1832年:祖先の姓に因み「景山」と改め鳥取に出て芝田温に学ぶ
- 1836年:江戸に出て昌平坂学問所に入学。梁川星厳、佐藤一斎らに学ぶ
- 1842年:京都に遊学する 医学も修行した
- 1845年:公家三条公睦・三条実美らの侍読となる。大坂堂島に塾を開く
- 1854年:鳥取藩主池田慶徳に召されて尚徳館教授に任じられる
- 1860年:尚徳館の制度改革を行う 御居間御講釈
- 1862年:探索係として入京し朝廷、藩庁間の周旋に努める
- 1868年:学校文場学正格式諸奉行。隠岐鎮撫の責を果たす。隠岐県設置の段取りを行う
- 1872年:教部省出仕を拝命したが健康が勝れず致仕する。東京猿楽町にて没す。墓は境港市景山家墓地