門脇重綾
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門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年(1826年) - 明治5年(1872年))は日本の武士・鳥取藩士、国学者。従四位。政治家の門脇重雄は息子。柔道家の門脇誠一郎は孫。
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[編集] 年譜
- 1826年:伯耆国会見郡渡村(現・鳥取県境港市渡町)に日御崎神社の神官 門脇重郷の子として生まれる。青少年期、中野村の景山粛の私塾に学ぶ。
- 1851年:京に上がり加納諸平に国学や和歌を学ぶ
- 1863年:鳥取藩より国学教授として召され4人扶持を受ける 12月:「伯耆志」編纂御用として会見郡、日野郡を調査
- 1864年:京都詰周旋方
- 1865年:記録方助役
- 1868年:山陰鎮撫使西園寺公望の付添御用掛として松江藩の弁護に努める。200石を給される。3月:徴士、内国事務局権判事、伝宣諸侯掛、議政官弁事等を歴任
- 1869年:弾正大忠 9月に起こった大村益次郎暗殺事件の兇徒処刑に異議を唱えて翌年3月に謹慎
- 1870年:神祇大佑
- 1871年:神祇少輔
- 1872年:教部大丞 8月に没する 墓所は渡町
[編集] 家族・親族
[編集] 系譜
- 門脇氏 渡村日御崎神社の神官門脇家の祖・16世幸高は尼子経久の家臣として戦功を挙げた。17世高政は尼子氏滅亡後大根島入江に移住した。18世重高は元亀2年(1571年)渡村に移住し江島祇園社と篠津村十羅刹女神社の神官として奉仕した。また、高政の子正幸は大篠津村に転住し大篠津村の神官門脇氏の元祖になったと伝える(『渡村門脇家系譜』)。
幸高━━高政━━重高・・・<略>・・・重郷━━重綾━━重雄
[編集] 著書
- 名和氏紀事
[編集] 参考文献
- 『境港市史』
- 渡公民館運営審議会 『渡・森岡 ふるさとのあゆみ』 119-130貢