曽祢益
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曾禰 益(曽祢 益)(そね えき、1903年12月5日 - 1980年4月25日)は昭和期の官僚・政治家。正三位勲一等。夫人は東急グループの創業者である五島慶太の長女である。第2代韓国統監となった曾禰荒助の孫。
[編集] 来歴・人物
東京都出身。父・建築家曽禰達蔵、母・慎子の三男として誕生。東京帝国大学法学部政治学科卒。1926年、外務省に入り、フランス、中国に駐在。外務省政務局第一課長を経て、1945年の終戦後は終戦連絡中央事務局政治部長としてGHQと交渉にあたるが、当時の外相吉田茂と対立し、九州に左遷される。曾禰の回想録によれば、終戦直前にも東郷茂徳外務大臣が軍部を刺激しないように慎重に終戦工作を進めている最中に、吉田が「なぜ直接アメリカに講和(実質は無条件降伏)を申し入れないのか」と、応対した曾禰に怒鳴りつけたとされており、吉田との相性が悪かったようである。1947年、片山内閣で内閣官房次長。
1949年、日本社会党に入党、翌年の第2回参議院議員通常選挙に神奈川選挙区から立候補し、初当選。1960年、民主社会党(後の民社党)の結党に参加し、初代書記長に就任。1962年まで務めた。1967年の衆院選に神奈川2区から立候補し、代議士に転身。1970年、1971年の党大会で西村栄一、春日一幸両氏と民社党委員長ポストを争ったが、いずれも敗れた。1979年、政界引退。
1980年4月25日、心不全のため死去。享年76。