有機リン化合物
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有機リン化合物(ゆうきリンかごうぶつ)は炭素−リン結合を含む有機化合物の総称である。有機リン化学ではそれらの性質や反応性を研究する。リンは窒素と同じく第15族元素であり、それらを含む化合物は共通の性質を持つことが多い[1][2]。
リン原子は−3、−1、+1、+3、+5価の原子価をとりうる。多くの化学の文献では、符号にかかわらず+3価と−3価の酸化状態を共に (III) と表すことが多い。IUPAC命名法には配位数 δ と結合数 λ を用いたものがある。この命名法に従えば、ホスフィンは δ3λ3 の化合物となる。
虫に対する毒性がある化合物が多いことから、古くから殺虫剤として農薬に使われている。「ホス」と付く農薬はたいてい有機リン剤である(ただしホスゲンは無関係)。また人に対する神経毒性が高い化合物も多いため、神経ガスとしてサリンなどが開発された。人の中毒症状としては縮瞳が特徴的である。
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[編集] ホスフィン
ホスフィン類の親化合物はホスフィン PH3 である。ホスフィン類は−3価の原子価を取り (δ3λ3)、単純なアミン類のリン類縁体である。有機化学でしばしば用いられる化合物としてトリフェニルホスフィンが知られる。アミンと同様、ホスフィンは三角錐型の構造をとるが、結合角はより大きい。トリメチルホスフィンの C−P−C 結合角は 98.6° であるが、メチル基を tert-ブチル基で置き換えると 109.7° まで増加する。
反転障壁はアミンよりもずっと大きい。そのため、異なる3つの置換基を持つホスフィンは光学活性を持つ。一方アミンは容易に立体反転を起こすため、ラセミ体としてしか存在しない。
塩基性はアミンと比べて低く、例えばホスホニウムイオン PH4+ の pKa は −14 であるのに対してアンモニウムイオン NH4+ のそれは 9.21、トリメチルホスホニウムの pKa 8.65 に対しトリメチルアンモニウムは 9.76 であり、トリフェニルホスホニウム (pKa 11.2) はトリフェニルアンモニウム (pKa 19) よりも塩基性度が低い(プロトンを放出しやすい)。
アミンと同じく孤立電子対を持つが、それらの間には若干の差異がある。ピリジンに見られるように、アミンの孤立電子対は非局在化によって C=C 結合を含む共役系を形成するが、同様の構造を持つホスフィンではそのようなことが起こらない。このためピロールのリン類縁体であるホスホールは芳香族性を持たないことが知られている。
反応性は求核性を有するという点においてアミンに類似し、一般式 R4P+ X− で表されるホスホニウム塩を形成する。この性質はアルコールをハロゲン化アルキルに変換するアッペル反応などで利用される。
アミンと異なるのは酸化されやすさであり、ホスフィンは容易に酸化されてホスフィンオキシドになる。
以下にホスフィンの合成法を示す。
- 有機金属試薬(グリニャール試薬など)によるハロゲン化リンの求核置換反応。
- RnPClm + m R'M → RnR'mP + m MCl (n + m = 3)
- 金属カリウムなどとホスフィンから調製した金属ホスフィドによる求核置換反応。ハロゲン化アルキルとナトリウムアミドの反応に対応する。
- R2PM + R'Cl → R2R'P + MCl (M = Li, Na, K)
- 強塩基存在下(ジメチルスルホキシド中水酸化カリウムなど)でのホスフィンのアルケン、アルキンへの求核付加反応。反応はマルコフニコフ則に従う[3]。反応に用いるホスフィンは赤リンと水酸化カリウムから系中で発生させることもできる。一級ホスフィン (RPH2) および二級ホスフィン (R2PH) をアクリロニトリルなど電子不足のアルケンと反応させる場合には、塩基を必要としない。
- R2PH + R'2C=CR'2 → R2P−CR'2−CHR'2
- R2PH + R'C≡CR' → R2P−CR=CHR'
- アゾビスイソブチロニトリルや有機過酸化物を用いた、ホスフィンのアルキンへのラジカル付加反応。この反応ではアンチマルコフニコフ型の生成物が得られる。
- クロロシランを用いたホシフィンオキシドの還元。
ホスフィンを用いた反応は、以下のものなどが知られている。
- ハロゲン化アルキルとの反応によるホスホニウム塩の生成。
- 還元剤としての利用。
- シュタウディンガー反応においてアジドをアミンに、光延反応においてアルコールをエステルに変換するのに使われる。これらの反応の過程で、ホスフィンは酸化されてホスフィンオキシドになる。
- 活性化されたカルボニル基を還元するのにも用いられ、例えば α-ケトエステルの α-ヒドロキシエステルへの還元が知られる[4]。トリメチルホスフィン上の水素原子の移動を含む反応機構が提唱されている(トリフェニルホスフィンは反応しない)。
- ジアザホスホレンのように、適切な置換基で修飾すれば P−H 結合の極性を反転させることができ(極性変換)、そのようなホスフィンヒドリドはカルボニル基を還元することができる。ベンゾフェノンの例を以下に示す[5]。
[編集] 配位子としてのホスフィン
- ホスフィン類はソフトな非共有電子対を持つため、ロジウムやパラジウムなどの遷移金属に対するよい配位子となる。これらの錯体は溶液中でも安定なものが多く、有機金属化学の発展に大きな役割を果たした。例えばウィルキンソン錯体は均一系での水素化触媒として名高い。
- 近年、ホスフィン配位子に工夫を加えることで、金属触媒の機能を上げる試みが大きな成果を上げている。例えば軸不斉要素を組み込んだ BINAP は各種の不斉反応に優秀な結果を与え、開発者の野依良治はこれらの成果によってノーベル化学賞を受賞している。また最近ではホスフィン配位子をかさ高く、電子豊富にすることでクロスカップリング反応などにおける反応性が格段に高まることが報告されており、有機化学分野で最も進展の著しい領域の一つとなっている。
[編集] ホスフィンオキシド
ホスフィンオキシド (δ3λ3) の一般式は R3P=O で表され、形式的酸化数は −1 である。ホスフィンオキシドは水素結合を形成するため、多くのものが水溶性である。P=O 結合は大きく分極しており、例えばトリフェニルホスフィンオキシドの双極子モーメントは 4.51 D である。
リンと酸素の間の二重結合は議論の的になっている。5価のリンはオクテット則に反しており、古い文献ではアミンオキシドと同じく、R3P→O のように配位結合として記述されていた。現在では、酸素の電子対からリンの(窒素原子には無い)空のd軌道への逆供与によって完全な二重結合を形成しているという考え方が最も一般的である。問題となるのは、P=O 結合は C=C 結合と違って付加反応を受けないという点、計算化学によってリンのd軌道は関与しないことが示されているという点である。別の理論ではイオン性の結合 P+−O− を支持しており、結合の強さ、短さはこれにより説明できる。
[編集] ホスホン酸エステル
ホスホン酸エステル(ホスホナート)は一般式 RP(=O)(OR)2 で示される構造を持つ。ホーナー・ワズワース・エモンズ反応やセイファース・ギルバート増炭反応 (Seyferth-Gilbert homologation) において、カルボニル化合物と反応させる安定化カルボアニオンとして用いられる。多くの工業用途を持ち、ビスホスホナートは医薬品として用いられる。
[編集] 亜リン酸エステルとリン酸エステル
亜リン酸エステル(ホスファイト)は一般式 P(OR)3 で示され、リンの酸化数は +3 である。パーコー反応 (Perkow reaction) やアルブゾフ反応に利用される。リン酸エステル(ホスフェート)は一般式 P(=O)(OR)3 で示され、リンの酸化数は +5 である。難燃剤や可塑剤として工業的に重要である。P−C 結合を持たないので、これらは厳密には有機リン化合物には含まれない。
[編集] ホスホラン
ホスホランは −5 の酸化数を持ち (δ5λ5)、親化合物 PH5 はホスホランまたは λ5-ホスファン (phosphane) と呼ばれる。リンイリドは不飽和結合を持つホスホランであり、ウィッティヒ反応などで使われる。
[編集] リンを含む多重結合
リン−炭素二重結合を持つ化合物 (R2C=PR) はホスファアルケン (phosphaalekene)、三重結合を持つもの (RC≡P) はホスファアルキン (phosphaalkyne) と呼ばれる。ホスホリン(ホスファベンゼン)はベンゼン中の炭素1個がリンで置き換えられた構造を持つ化合物である。ホスファアルケンの反応性は多くの場合イミンとは異なり、アルケンと類似する。これはホスファアルケンの最高被占軌道 (HOMO) がリン上の孤立電子対ではなく二重結合にあるためである(イミンでは窒素原子の孤立電子対が HOMO である)。ゆえに、ホスファアルケンはアルケンと同様、ウィッティヒ反応、コープ転位、ディールス・アルダー反応などを起こす。
ベッカー (Becker) らはブルック転位と類似したケト-エノール互変異性を利用し、1974年に最初にホスファアルケンを合成した。
同年、ハロルド・クロトーは (CH3)2PH の熱分解により CH2=PCH3 が生成することを分光学的に示した。
ホスファアルケンの一般的な合成法は適切な前駆体の 1,2-脱離反応を用いるものであり、反応は熱またはジアザビシクロウンデセン (DBU)、DABCO、トリエチルアミンなどの塩基で補助される。
ベッカーが用いた方法は、リン原子を含有するポリフェニレンビニレンの合成にも用いられている[1]。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ^ a b Dillon, K. B.; Mathey, F.; Nixon, J. F. Phosphorus. The Carbon Copy; John Wiley & Sons, 1997. ISBN 0-471-97360-2
- ^ Quin, L. D. A Guide to Organophosphorus Chemistry; John Wiley & Sons, 2000. ISBN 0-471-31824-8
- ^ Arbuzova, S. N.; Gusarova, N. K.; Trofimov, B. A. "Nucleophilic and free-radical additions of phosphines and phosphine chalcogenides to alkenes and alkynes". Arkivoc 2006, part v, 12–36 (EL-1761AR). リンク(英語)
- ^ Zhang, W.; Shi, M. "Reduction of activated carbonyl groups by alkyl phosphines: formation of α-hydroxy esters and ketones". Chem. Commun. 2006 1218–1220. DOI: 10.1039/b516467b
- ^ Burck, S.; Gudat, D.; Nieger, M.; Du Mont, W.-W. "P-Hydrogen-Substituted 1,3,2-Diazaphospholenes: Molecular Hydrides" J. Am. Chem. Soc. 2006, 128, 3946–3955. DOI: 10.1021/ja057827j