李典
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李典(りてん、生没年不詳)は、中国、後漢末の武将。字は曼成。子は李禎。
[編集] 略歴・人物
[編集] 略要
山陽郡鉅野県の人。謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという。190年、陳留で挙兵した曹操の下へ乗氏県から三千騎の一族郎党と食客を率いて馳せ参じた、従父・李乾に従って行動を共にした。
194年、曹操が呂布と戦った時、従父・李乾が呂布の武将・李封から帰順の催促を受けるもこれを断固として拒んだために、激怒した李封の軍勢によって無惨にも討ち取られた。父の後を継いだ族兄の李整も相次いで病死したため、李典は若くしてその後を継いだ。また、一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。間もなく、曹操から中郎将・離狐郡太守に任命されている。
その後、勇将として官渡の戦いなど数々の合戦に参加して武功を挙げ、捕虜将軍・都亭侯・破慮将軍と昇進を続けた。203年、袁尚の指示を受けた高幹・郭援が平陽にある壺関で挙兵すると、曹操の命で楽進と共に遠征して、馬超らと共にこれを破った。しかし、206年に高幹が再び反乱を起こしたために、楽進と再び討伐に向かい、見事に高幹を討ち取ったという。
208年の赤壁の戦い以降は、張遼や楽進と共に合肥に駐屯して、翌209年に呉の孫権の侵攻を防いでいる。
しかし、李典はかつて従父・李乾を殺害された経緯から、旧呂布の部将であった張遼とは険悪の仲だった。そのために、いつも作戦を巡っては常に対立していたが、楽進の仲介もあって、国家の大事に私情は差し挟めないと言って張遼と共に協力し合った。やがて、李典は歩兵八百を率い、逍遙津にて奇襲で十万人の呉の軍勢を迎え撃ち、果敢に撃退したという。
武帝紀・建安二十年(215年)8月、孫権を合肥で打ち破ったのを最後に、その事績が途絶えている。よく生没年を174年-209年とする書物があるが、史書本文や上記略歴を見る限り、彼の活躍が明確になるのは、官渡の戦い前後であり、武帝紀の記述と合わせて先の生没年を採る事は不可能である。
惜しいことに、李典は36歳の若さで病死した。愍侯と諡された。
[編集] 演義での李典
なお、演義では、曹操が董卓に反旗を翻し、軍を編成した時点で既に仕えているが、これは恐らく李典ではなく李乾だろう。生没年の混乱は、ここから生じたものと考えられる。華北4州を平定すると、曹仁の配下として樊城に駐屯した。206年に、新野城の劉備が徐庶を軍師として樊城を攻撃した時に、曹仁と意見を異して対立した。李典は曹操に援軍要請を勧めるように慎重策を述べた。しかし曹仁は聴き容れず、その結果、徐庶の見事な采配で樊城を奪われてしまい、許都に撤退した(実際は、樊城は陥落せず、曹仁は最後まで曹操の指示を厳守し、厳格に統率して名将として、その名を轟かせた)。
翌207年には夏侯惇に従い、于禁と共に新野付近の博望坡を攻め寄せた。この時も、李典は突然撤退した敵の追撃を諫め、敵の伏兵と火攻めの警戒をするように進言した。ところが夏侯惇も曹仁同様に聴き容れず、結局は諸葛亮の火計に遭い大敗した。しかし、李典は曹操から総大将・夏侯惇を諌言したことを評価され、咎めなかったという。
翌208年に曹操が荊州など南方征伐に動いた時も従軍した。逃亡する劉備を追跡する途中で、長坂坡で仁王立ちしている張飛に撃退された。再び曹操と共に長坂坡に行くと、今度は長坂坡が焼き払われていた。そこで李典は「橋を落としたのは伏兵のない証拠」と判断して再追撃を命じた曹操に「諸葛亮の罠ではないかと思われます」と諌言した。曹操は李典の言葉を聴き容れて、撤退したという。
翌209年には、張遼の副将として合肥の守備し、呉の武将の太史慈を討ち取ったことになっている。