李書文
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李書文(り しょぶん、Li Shuwen)、字は同臣。1864年 - 1934年)は中国武術家。出身は河北省塩山県で黄四海、張景星、金殿臣より八極拳を、黄林彪より劈掛掌(劈掛拳)を学び達人と称された。真剣勝負に於いては、幾度も決闘をするも負け知らずであったといわれる。槍を得意としたことから神槍、瘋子李とも恨子李ともあだ名された。また殆どの対戦相手を牽制の一撃で倒したことから二の打ち要らずと謳われ、三歳児でもその名を知られていたと言われる。晩年は凶拳李と恐れられた(滄州武術協会副主席李書亭談)。
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[編集] エピソード
[編集] 猛虎硬爬山
李書文は猛虎硬爬山という技を好み、絶招(必殺技の意)としていた。 猛虎硬爬山とは、「虎が硬い爪で山を掻き崩す」という意味があるといわれ、虎爪掌という手形で相手の体勢を崩した後に、掌打によって相手を打ち倒す技法が代表的とされる事がある。
猛虎硬爬山には八大招式(套路のひとつ)で示される技と六大開拳(套路のひとつ)でいう技があり、八大招式においての猛虎硬爬山には原理は示されていても、具体的にこれだという技は指定されていない。ゆえに各派・各人によって定式(技の終わり)は肘打ちのものもあれば、掌打のものも存在する。 こうした技術のバラつきは、書文が八極拳の、全伝を得ずに修行を中断し、地方や首都を回る武術修行に出たためである。 一説には、八大招式の8種の内、4種しか学ばなかったと言われる。 また、すべての実戦の際は「捨身法」と言う秘伝を用いたため、相手は体が伸びきり意識が虚になった状態で、激しく打ち込まれたため、死亡するか障害を負うほどの重症に見舞われた。
[編集] 六合大槍
李書文は六合大槍という槍術を得意とした。この槍術は八極拳の一部である(詳細は八極拳を参照)。 その使い手には達人が多かったといわれ「神槍」と呼ばれた武術家を多数輩出している。 八極拳以外の形意拳や心意六合拳等で使用される同名の六合大槍とは技法内容が異なっている。
[編集] 神槍
神槍についてのエピソードとしては次の様なものがある。 ある日稽古から帰った書文に対して隣人が「大槍の腕前も上がった事だろう、一つ見せてくれんかね」と頼んだ。書文は「よし」と答えたが套路を一から見せるのも面倒なので、壁に数匹止まった蝿を次々と刺した、全ての蝿が落ちた後に友人が壁を見たが、壁には全く傷が無く、これを見た隣人は「まさに神技だ」と称賛した。また、燕京(現在の北京)にて槍術の名人を悉く倒した事により、一躍「神槍・李書文」の名が知れ渡るに至った(滄州日報より意訳)。
[編集] 二の打ち要らず
北京にて、ある武術家との試合において、牽制の突きだけで相手を打ち殺してしまい、逮捕されぬ様に慌てて滄州へ帰ったという(書文最後の正式弟子劉雲樵談)。
山東省で鉄頭王と呼ばれる武術家との果し合いでは「あなたは私を三回打って良い、その後に私が一度だけ打つ」と言った。鉄頭王は怒り、書文を渾身の力で三度打ったがびくともせず、その後に書文が脳天に掌打を打ち込むと相手の頭は胴に沈み即死したという(李氏八極拳門弟許家福の門人張忠世談)。
この様に、二打目を出すまでも無く相手を倒した事から「二の打ち要らず」と謳われた。
[編集] 怪力
ある時、燕京一の力自慢が李書文に力比べを申し込んだ。書文は長さ三尺の鉄棒を石壁に突き刺し「これを抜いてみろ」と言ったが、その男は半日に渡り力一杯その棒と格闘したが、終に抜く事が出来なかったという。 また、猛虎硬爬山の威力を向上する鍛錬に於いて、書文は重さ100㎏以上もある石製のローラーを2m余りの段差がある畑の上階へ投げ上げるという方法を取る等、痩身に似合わぬ怪力の持ち主であったと伝えられる(『滄県志』より)。
[編集] その他のエピソード
- 李の高名を聞き、当時の覇権を争っていた軍閥は彼の武術を争うように求めた。
- 大変迷信深かった為、写真などが残っておらず伝説の域に達した感のある人物である。
- 新撰組の近藤勇同様、拳を口に入れることができた。
- あまりに李が試合相手を打ち殺してしまったために、当事の将軍(書文の弟子に当たる)は「武術家の試合における殺傷は犯罪にはならない」という法律を作ったといわれる。
[編集] 死因に関する諸説
- 「試合に負けた武術家の遺族に毒殺された」という説。
八卦掌の宮宝田の家に滞在していた劉雲樵氏に書文の死を知らせたのは張将軍である。 後に劉雲樵と宮宝田が調査に出向き、毒殺らしいとの結論を出した。 劉雲樵は毒殺されたと確信し犯人を探して回ったが、結局犯人は見つからなかった。
- 「病死」という説。
山東省に赴いていた際に病を患っており、鍛錬後に椅子に座ったままの姿勢で死亡した。
諸説在るが、書文の家族は「病死」だったと述べている。また、あまり怖いと思ったことはなかったとも述べており、その他の逸話からも、家族や身内に対しては優しい人物であったと推察される。
[編集] 李書文の門弟
李東堂(長男)、李萼堂(次男)、李義堂(三男)、孟顕忠(娘婿)、崔長友、張徳忠、霍殿閣、劉雲樵(関門弟子)などが著名である。
[編集] 関連項目
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