東亜会
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[編集] 歴史
前身は、「東声会」(とうせいかい)。東声会の設立者は、第二次世界大戦後に東京で愚連隊などを形成していた在日韓国人の町井久之(本名は「鄭建永」)である。
東声会は、昭和32年(1957年)に、「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもと、町井久之によって、在日朝鮮人連盟(現:朝鮮総連)や在日朝鮮統一民主戦線などへの防波堤として、東京銀座で結成された。その母体となったのは、昭和20年代に町井久之が立ち上げた「中央商会」(事実上の事件屋)や、興行進出の元となった「中央興行社」だった。
昭和36年(1961年)10月31日深夜、新宿区・歌舞伎町の深夜喫茶「スワン」で、東声会幹部・陳八芳と東声会系三声会・三木恢会長が、港会会員・福岡幸男に撃たれて死亡した。その場に居合わせた東声会組員2人も重傷を負った。事件後、港会との関係は緊張した状態となったが、同年10月中旬に手打ちとなった。
同会は1960年代に入ると神奈川、千葉、埼玉、群馬など関東地方全域、さらに他地方にまで活動領域を拡げ、1600人以上の勢力を有するに到った。 しかし、抗争を伴う急激な拡大により関東で孤立状態に陥った。
そこから脱するために町井久之は、まず元右翼の大物である平野富士松を副会長に迎え入れ、内部立て直しを断行した。それから、神戸から全国に展開しつつあった三代目山口組の組長・田岡一雄の舎弟となり、三代目山口組を大きな後ろ盾とした。東声会と山口組との結縁に、当初関東の諸組織は反発した。しかし、この結縁を右翼の大物・児玉誉士夫が取り持ったこともあって、昭和38年(1963年)2月に、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で行われた兄弟盃には阿部重作・住吉会名誉顧問、稲川角二・錦政会会長(当時)、関根賢・関根建設社長・松葉会顧問(元関根組組長)、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長ら関東の実力者が臨席。町井と東声会は立場を確実なものにした。
昭和38年(1963年)8月、安藤組幹部・西原健吾(花形敬の舎弟)の若衆が、東声会の組員を斬った。同年9月27日午後11時15分ごろ、神奈川県川崎市二子56先の路上で、東声会の刺客2人が、安藤組大幹部・花形敬を刺殺した。
同年11月9日午後6時9分ごろ、東京会館の前の路上で、東声会組員・木下陸男が、東京会館で行われた出版記念祝賀会から帰る途中だった田中清玄を銃撃した。三発の銃弾が腹部、右腕などに命中して重傷を与えた。木下陸男は、近くにいた丸の内警察署の巡査に現行犯で逮捕された。木下陸男は「町井久之会長が、田岡一雄組長の弟分になったが、『田中清玄が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしている』との風評がたったため、町井久之会長が非常に苦しい立場追い込まれると思い、襲撃した」と供述した。しかしながら、丸の内警察署は背後関係を疑い、町井久之会長を銃砲刀剣不法所持で別件逮捕した。だが、背後関係までは立件できなかった。結局、町井久之会長は起訴されなかった[1]。
同年12月8日午後10時30分、赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、住吉一家・村田勝志が登山ナイフで、プロレスラー・力道山の腹部を刺し、逃走した。翌12月9日午前0時40分、リキアパート前の路上で、東声会幹部・野口ら4、5人が、村田勝志に暴行を加えた。同年12月15日、力道山は入院先の病院で死亡した。
同年12月21日[2]、錦政会、住吉会、松葉会、日本国粋会、義人党、北星会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。関東会初代理事長には、松葉会・藤田卯一郎会長が就任した。関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。
その後、間もなく開始された「第一次頂上作戦」の影響により、昭和41年(1966年)9月1日に町井久之は東声会の解散声明を発表した。その一週間後、東京の池上本願寺で解散式が行われた。町井久之は、やくざ社会の表舞台から去った。
警察の風当たりが弱まると、昭和42年(1967年)4月に、東声会は、「東亜友愛事業協同組合」(とうあゆうあいじぎょうきようどうくみあい)として、企業色を前面に押し出した形で再建された。町井久之は名誉会長となった。町井久之は、この東亜友愛事業協同組合に資金提供を行っており、人事権も握っていた、と云われる。なお、関東会も関東二十日会として復活した。
その後、東亜友愛事業協同組合は「東亜友愛事業組合」と名称変更して、親戚団体である山口組と密接な係わりを保ちながら、関東二十日会にも参加するなど、独自の路線を歩んでいった。 それから、「東亜友愛」(とうあゆうあい)、「東亜会」と名称を変更した。
[編集] 註
- ^ 田中清玄は自身の自伝の中で『木下陸男は、児玉誉士夫からの差し金で、金をもらってやった』と書いている
- ^ 「第046回国会 法務委員会 第30号」と「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」では、結成披露日を12月21日と記載されているが、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9では11月21日と記述されている
[編集] 山口組との関係
山口組とは田岡一雄―町井久之の兄弟盃以来、東亜友愛事業組合理事長・沖田守弘が三代目山口組で「幹部扱い」され、四代目山口組時代には「若頭補佐待遇」とされるなど友好関係を保ち、親戚団体の一つとなっている。2005年に六代目山口組が発足すると組長・司 忍を後見人に迎え、関係を さらに強化した。
[編集] 最高幹部
- 会長・金海芳雄
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『愚連隊伝説』洋泉社 1999年 ISBN 4-89691-408-2
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<アウトロー文庫>、2006年、ISBN 4-344-40894-2
- 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」
- 「第046回国会 法務委員会 第30号」
- 「国会会議録・第046回国会予算委員会第4分科会第2号」
- 「平成元年警察白書・第1章 暴力団対策の現状と課題・第1節 暴力団の変遷と最近の特徴」
- 田中清玄・大須賀瑞夫『田中清玄自伝』文藝春秋社 1993年 ISBN 4-16-347550-8
- 「国会会議録・第071回国会決算委員会第27号」
- 「国会会議録・第071回国会決算委員会第28号」