銀座
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銀座(ぎんざ)は、東京都中央区にある、東京都23区を代表する繁華街の一つ。日本の繁華街の代名詞的存在となっており、高級商店街、繁華街としては世界的にもその名が知られている。「洗練された大人の街」として活況を呈している。
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[編集] 地理
東京都中央区の西部に所在する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在し、銀座四丁目と銀座五丁目の間を晴海通りが、全体を南北に外堀通り、中央通りおよび昭和通りが貫く。
百貨店を始め、高級服飾店、高級飲食店、劇場などが立ち並ぶ商業地であり、6本の地下鉄路線が走るなど交通体系も充実している。
[編集] 区域
南東側は現在の首都高速都心環状線(C1)、その他を東京高速道路線(KK)にぐるりと囲まれた地域で、有楽町駅・銀座駅・銀座一丁目駅・東銀座駅を最寄り駅とする、外堀通り・並木通り・銀座通り・昭和通り・木挽町通り・銀座桜通り・銀座マロニエ通り・晴海通り・みゆき通り・花椿通り等の沿道界隈である。
稀に銀座の南端(東端)は昭和通りと勘違いされることがあるが、昭和通りのさらに東側に位置する歌舞伎座(晴海通り沿い、東銀座駅が最寄り駅)や新橋演舞場・日産自動車本社(みゆき通り・銀中通り沿い、東銀座駅が最寄り駅)も住所は築地ではなく銀座である。なお、首都高速都心環状線を挟んで新橋演舞場の反対側に立地する国立がんセンター中央病院(みゆき通りと新大橋通りが交差する一角)や東銀座東劇ビル・ADK松竹スクエア・京橋郵便局(以上、晴海通りの万年橋東側)の住所は銀座でなく築地だが、最寄り駅は築地駅ではなく東銀座駅である。一般的にこの昭和通りの東側界隈は東銀座と呼ばれている。
[編集] 区域・町名の変遷年表
- 1869年(明治2年)5月
- 江戸町名改正により新両替町と三十間掘西側等をあわせて銀座一丁目から四丁目が起立。
- 当時の銀座一~三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形にあたる。
- 1930年(昭和5年)3月4日
- 区画整理により現在の晴海通り北側の鎗屋町など計4町域を銀座一~四丁目に編入。また、現在の晴海通り南側の尾張町一丁目、竹川町、出雲町など計9町域を統合して銀座五~八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた計18町域(西紺屋町、南鍋町一丁目、元数寄屋町一丁目、瀧山町など)を統合して銀座西一丁目から八丁目とした。
- この時点での銀座一~四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、(中央通りから西へ2番目の通り)、晴海通り、桜通り(東京高速)に囲まれた四角形にあたる。また、当時の銀座五~八丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、御門通り、晴海通りに囲まれた四角形にあたる。「銀座西」は「銀座」と西側にある外堀に囲まれた地域。
- 1951年(昭和26年)8月1日
- 三十間掘川の埋め立てにより木挽町(こびきちょう)と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(二~八丁目も同様)と改名した。(埋め立ては1952年7月に完了した。)
- 1968年(昭和43年)10月1日
- 住居表示実施により、銀座西一丁目と銀座一丁目を統合し、これを改めて銀座一丁目(二~八丁目も同様)として銀座西が消滅。
- 1969年(昭和44年)4月1日
- 住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(二~八丁目も同様)として銀座東が消滅。
[編集] 隣接する地区
[編集] 歴史
[編集] 江戸時代
江戸時代以前、銀座付近は日比谷入江と呼ばれる海であった。徳川家康が江戸に入封した直後の1603年、武家屋敷の必要性や江戸城の防衛などの理由から、幕府は諸大名に命じてこの入江を埋め立て、掘割が巡らされた。そして1612年、駿府にあった銀座役所が現在の銀座一丁目~四丁目に移転し、1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に移転するまで、貨幣の鋳造が行われた。江戸時代、この地域は「京橋南」、「新両替町」、「銀座」という3つの地名で呼ばれていた。
当時の銀座は真ん中に東海道が通り、人家が軒を連ねていた。しかし、江戸研究家の三田村鳶魚によれば、街としての賑わいは日本橋や京橋に劣っていたという。
[編集] 明治時代
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜~東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があった。煉瓦街はまず1873年、銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。また、同年には銀座通りの並木が、サクラ・マツ・カエデから、現在でも町の象徴とされているヤナギへと植え替えられた。
しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手に住む中産階級、ホワイトカラーの人々だったということである。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。一方、維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
[編集] 大正・昭和初期
1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。また、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街も作られていった。
震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店、カフェーなどが次々と銀座にでき、震災恐慌や昭和金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けていった。昭和初期には、アール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、町を散策する「銀ブラ」は全盛を極めた。
しかし、日本の戦争への介入にしたがって、銀座もその影響を受けるようになった。戦局の悪化にともない、1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。戦争末期の1945年1月27日には銀座が初めて空襲を受け、多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校も直撃し、教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った。その後も、3月10日、4月28日、5月25日の空襲で、銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けた。
[編集] 戦後
終戦後、服部時計店、松屋や東芝ビルなど、多くの商業施設が連合国軍のPXとして接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、商店はバラックや露店で営業を再開した。華僑・王長徳による一等地買占めが行われたのもこの時期である。1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。1951年にGHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。
こうした再興の過程で、戦災を免れた建物が取り壊され、建物の高層化が進んだ。また、1964年の東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年の三十間堀の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧江戸城外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路に化けていった。東京高速道路の1階、2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目などと呼ばれる。
1968年から「明治100年」を期に「大銀座まつり」が開催され(1999年をもって休止)、1970年からは晴海通りを除いた銀座の全ての道路で歩行者天国が始まった(現在は銀座通りのみ)。
1990年代後半になると、町の再開発とともに、海外有名ブランド店やチェーン店の進出が加速した。
[編集] 地域
[編集] 人口
昼間人口は約15万人。それに対して夜間人口は、2,177世帯、3,571人(2007年1月現在)である。
1908年には27,689人が暮らしていたが、関東大震災や戦争を機に郊外流出が進み、1955年に15,582人にまで減少した。更に高度経済成長期には人口減少に拍車がかかり、1970年の人口は6,257人、1998年は2,963人にまで減少したが、それ以降は都心回帰によって増加に転じている。
[編集] 文化
明治時代、煉瓦街建設や横浜と新橋を結ぶ鉄道の開業、また築地鉄砲洲に外国人居留地があったために舶来品の往来が盛んとなった銀座にはそれらの商品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。
[編集] 食文化
食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。1871年、「文英堂」(現・木村屋總本店)が尾張町にて創業し、パンの販売を始めた。また、1895年には洋食屋の「煉瓦亭」が開業し、カツレツなどの洋食を日本全国へ波及させた。銀座で調剤薬局を営んでいた資生堂は1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・資生堂パーラー)を併設し、ソーダ水やアイスクリームを売りだした。他にも、1897年に開業した「銀座千疋屋」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど、銀座には様々な食文化が流れ込んだ。
1911年、パリのカフェを模した「カフェープランタン」が開店し、作家や画家などの文化人の社交場となった。その後も「カフェーパウリスタ」や「カフェーライオン」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、文学運動の議論が盛んに行われた。しかし、関東大震災を境にカフェーは女給による濃厚なサービスを行う場に変貌していき、昭和初期にはエログロナンセンスの流行とともに大衆化・俗化し、カフェ文化は全盛を極めることとなった。
戦後、銀座は高級料理店や料亭、高級クラブなどが立地する街として認識されるようになっていった。1980年代頃からは世界の一流レストランが多く進出するようになった。一方で、外食フランチャイズの進出も盛んになった。まず、1971年に「マクドナルド」が第1号店を三越1階に開店した。1990年代には「スターバックスコーヒー」や「タリーズコーヒー」が相次いで進出し、その後も「サンマルクカフェ」や「ル・カフェ・ドトール」の1号店の開店が相次ぎ、銀座はカフェの激戦地となったほか、カフェブームを全国へと広げる舞台にもなった。
[編集] ファッション
服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。そのなかで、資生堂は化粧品を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献した。
関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけてはモボ・モガと呼ばれる当時の世界的流行であったアール・デコの影響を色濃く受けた若者たちが現れた。
1964年、並木通りやみゆき通り周辺に「みゆき族」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していたアイビー・ルックを少し崩し、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「VAN」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。しかし、同年に開催される東京オリンピックを前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消した。
1990年代以降に、海外ブランドの進出が活発化し、並木通りを中心に多くの海外高級ブランド店が進出している。
[編集] 文化施設
明治後半から大正時代にかけて、歌舞伎座や東京宝塚劇場など、銀座・有楽町周辺には多くの劇場が開場した。
昭和20年代後半にはカントリー・ミュージックやシャンソン、ジャズなどをバンドの生演奏で楽しむジャズ喫茶の開店が相次いだ。また、シャンソン喫茶「銀巴里」は多くのシャンソン歌手を生んだ。しかし、1970年ごろより、新宿や御茶ノ水といった学生街に音楽の拠点は移っていった。
現在では、劇場や映画館、コンサートホールなどの文化施設が多く存在している。特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の文化支援活動のひとつとして開いているものが多いことである。また、画廊は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。
[編集] 主な文化施設一覧
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[編集] 交通
1882年に東京馬車鉄道が新橋~日本橋間で開業した。1903年、馬車鉄道は「東京電車鉄道」と名を変え電化し、同年には数寄屋橋~神田橋間に東京市街鉄道が開業した。これらの鉄道路線は、後に東京市電として公営化し、路線・系統の拡大がされた。1934年には東京地下鉄道によって敷設された地下鉄(現・東京地下鉄銀座線)が銀座まで延伸した。
1950年代より地下鉄網の整備が着々と進められ、丸ノ内線や日比谷線が開業した。その一方で、市電は撤去されていった。
- 道路
- 鉄道駅
- 銀座駅 - 東京メトロ銀座線、日比谷線、丸ノ内線(数寄屋橋交差点・銀座四丁目交差点付近の最寄り駅)
- 京橋駅 - 東京メトロ銀座線(銀座一丁目銀座中央通り沿い付近の最寄り駅)
- 東銀座駅 - 東京メトロ日比谷線、都営浅草線(昭和通り付近の最寄り駅)
- 宝町駅 - 都営浅草線(銀座一丁目昭和通り付近の最寄り駅)
- 銀座一丁目駅 - 東京メトロ有楽町線(外堀通り~銀座中央通りの銀座1丁目・2丁目付近最寄り駅)
- 有楽町駅 - JR山手線、京浜東北線、東京メトロ有楽町線(数寄屋橋交差点、外堀通り付近の最寄り駅)
- 日比谷駅 - 東京メトロ日比谷線、千代田線、都営三田線(数寄屋橋交差点付近の最寄り駅)
- 新橋駅 - JR山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線、東京メトロ銀座線、都営浅草線、ゆりかもめ(銀座七丁目、八丁目付近の最寄り駅)
[編集] 建物・施設
- 商店
- 本社
- 日産自動車本社
- 王子製紙本社
- 電源開発本社
- 山野楽器本社
- 資生堂本社
- 不二家本社
- 紀文食品本社
- ヤマト運輸本社
- リクルート本社
- 東京海上日動火災保険本社
- 東映本社
- 時事通信社本社
- マガジンハウス本社
- 実業之日本社本社
[編集] 商店街の代名詞
「○○銀座」と呼ばれる商店街が全国に見られる。その大半が東京の銀座に倣った物であり、多くの商店街が並ぶ。近年では、郊外型ショッピングセンターに押され衰退気味だが、商品の個性化、地域通貨など様々なサービスを展開し、賑わいの復活を模索している。最近は、高級服飾店が幾つも立地するなど高級化している。「○○銀座」の元祖は東京都品川区にある戸越銀座と言われている。
[編集] 銀座を舞台・背景とした作品
- 銀座カンカン娘(1949年)
- ゴジラ(1954年)
- 太陽の季節(1956年)
- 嵐を呼ぶ男(1957年)
- 銀座の若大将(1962年)
- 007は二度死ぬ(1967年)
- ロスト・イン・トランスレーション(2003年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 銀座コンシェルジュ - 銀座公式サイト
- 銀座エリア情報 「銀座エリアガイド」
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