藤田卯一郎
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藤田卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - 1968年7月8日)は、日本のヤクザ、右翼活動家。松葉会初代会長。茨城県水戸市出身。通称は「不退の軍治」。
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[編集] 関根組解散まで
明治39年(1906年)9月20日、茨城県水戸市近郊で生まれた。母の与加が、東茨城郡長岡村(現:東茨城郡茨城町長岡)の郡司佐太郎と再婚したことから、長岡村で育った。
旧制水戸中学校(現:茨城県立水戸第一高等学校)に入学した。大正10年(1921年)1月、旧制水戸中学校に戸籍謄本を提出した際に、自分が母の連れ子で、実の父の姓が「藤田」であることを知った。
同年1月10日、旧制水戸中学校校長・菊池謙二郎(後の衆議院議員)が、いはらき新聞社主催の会合「十日会」で、「国民道徳と個人道徳」と云う講演を行った。後日、この講演内容が、数回に分けられて、『いはらき新聞』に掲載された。この内容を茨城神道団が糾弾し、陳情書を文部大臣宛に提出した。さらに、茨城県選出の政友会の代議士・小久保喜七ら20名も講演内容を批判し、文部大臣、内務大臣、司法大臣と会見し、菊池謙二郎校長の処分を迫った。在京茨城県人会からは、菊池謙二郎校長排斥の決議が出された。茨城県知事・力石雄一郎は、菊池謙二郎校長に辞職を勧告した。菊池謙二郎校長は、力石雄一郎県知事の勧告を拒否した。同年2月6日菊池謙二郎校長は、茨城県から出された7項目の質問に返答書を出した。翌2月7日、菊池謙二郎校長は、茨城県に辞表を提出した。同年2月9日、文部省は、菊池校長の辞表を受理した。同年2月11日、旧制水戸中学校の全校生徒が運動場に終結して話し合い、校長復職のために「同盟休校」(全校ストライキ)を行うことを決議した。同年2月12日、旧制水戸中学校の告別式で、菊池謙二郎は、同校の生徒に、辞職に至る経緯を説明した。その後、旧制水戸中学校の生徒は、菊池謙二郎の校長復職を求める決議文を書いた連判状を作った。生徒たちは、血判して、「同盟休校」を宣言した。藤田卯一郎も血判した。同年2月14日、旧制水戸中学校の生徒は同盟休校を決行した。生徒側代表5名が県庁を訪ね、力石雄一郎県知事に決議文と陳情書を手渡した。力石雄一郎県知事は、菊池謙二郎の復職を拒否した。旧制水戸中学校の生徒は1万枚のビラを撒いた。翌2月15日朝、旧制水戸中学校生徒800人が、水戸市常磐公園に集結し、それから「慕菊池先生」や「尽忠報国」と書かれた幟旗を掲げて、水戸市内をデモ行進した。藤田卯一郎もこのデモ行進に参加した。生徒の父兄、旧制水戸中学校の卒業生や教師が、旧制水戸中学校の生徒を説得したが、物別れに終わった。県当局の要請を受けて、菊池謙二郎が旧制水戸中学校の生徒を説得した。県当局は、2月19日までに登校しない生徒を退学処分にすると通告した。父兄たちの依頼により、登校期限は2月21日まで延期された。同年2月21日、旧制水戸中学校全生徒が登校し、ストライキは解除された。結局、菊池謙二郎の校長復職はならなかった(水戸中学菊池校長舌禍事件)。
藤田卯一郎は、旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった。藤田卯一郎は、上京して間もなく、姓を実父の「藤田」に戻した。
昭和7年(1932年)春、藤田卯一郎は、高橋邦之介の使いで、向島区寺島町(玉の井)の轟幸太郎宅を訪れた。轟幸太郎は、民政党院外団常任幹事・関根実(関根賢の兄)の若衆で、大和民労会系の人物だった。轟幸太郎は、ざる蕎麦の出前を取り、藤田卯一郎ら4人とともに応接室で食べ始めた。このとき、関東国粋会系神津島一家の刺客数人が乱入してきた。轟の書生が腰を刺されて重傷を負った。藤田卯一郎は、刺客の1人を刺殺し、1人に重傷を負わせた。轟の若衆が駆けつけると、刺客は退散した。藤田卯一郎は、轟幸太郎の指示で、向島の料亭「まえじま」に身を隠した。翌日の夜、関根賢が藤田卯一郎を訪ねた。その場で、藤田卯一郎は関根賢の若衆になった。翌日朝、藤田卯一郎は、関根賢に付き添われて、向島警察署に自首した。轟幸太郎と神津島一家の対立は、上萬一家玉の井貸元・飯島半之助(本名は吉井半之助)が仲裁した。藤田卯一郎は懲役10年の判決を受けた。
昭和10年(1933年)春、藤田卯一郎は、模範囚だったことと皇太子誕生の恩赦により、刑期を短縮されて、千葉刑務所を出所した。同年、志乃と結婚し、葛飾区青砥に住み、母の与加を呼び寄せた。
昭和11年(1934年)、関根賢が本所・向島区方面の博徒、愚連隊を集めて、向島に土建業「関根組」の看板を掲げた。同年、藤田卯一郎に、長女の珠美が誕生した。その後、藤田卯一郎は、関根賢の若衆・木津政雄と五分の兄弟分となった。
昭和16年(1941年)9月16日、母の与加が死去。享年66。
昭和17年(1942年)夏、藤田卯一郎は、拳闘倶楽部「日東ジム」会長・益戸克己(「不良の神様」と呼ばれた)、幸平一家・本橋政夫、生井一家・篠原鶴吉とともに、住吉一家三代目・阿部重作の舎弟となった。
同年、関根組幹部・石渡幸吉(藤田卯一郎の舎弟だった)の兄弟分・赤水貞道が、本所の賭場で、藤田卯一郎に所作を注意されたことに腹を立て、藤田と揉めた。それから一週間後の夜、石渡幸吉が、関根組幹部・土田元勝(石渡の兄弟分だった)と石渡の舎弟・露野五郎とともに、赤水貞道の住む浅草馬道の「金時アパート」に赴き、赤水貞道と話し合いを持った。だが、話し合いはこじれ、斬り合いとなった。石渡幸吉が赤水貞道を刺殺した。石渡幸吉、土田元勝、露野五郎は警察に自首した。藤田卯一郎は、殺人教唆容疑で、警視庁に逮捕されたが、無罪放免となった。
昭和19年(1944年)、軍部から警視庁を通じて大和民労会に国家奉仕の依頼があり、関根組は、児玉誉士夫とともに鉄・銅資源の収集を行った。藤田卯一郎も鉄・銅資源の収集に奔走した。
昭和20年(1945年)の終戦直後、藤田卯一郎は、兄弟分・益戸克己の口利きで、佐藤栄助(後の松葉会二代目、四代目[1])を舎弟とした。さらに、佐藤栄助は関根賢から盃を貰って、関根組の若衆となった。昭和21年(1946年)10月、藤田卯一郎は、橋本時雄(後の出羽家一家五代目)を若衆とした。
昭和22年(1947年)時の関根組の大幹部は、副組長・関根時雄、藤田卯一郎、久野益義(後の松葉会最高顧問)、田山芳徳(後の上萬一家六代目)、木津政雄、白土源次郎、渡辺庄吉、向里政文、三浦賢治、関原春重、小栗善清、上田武男、小林清、大宮福三郎、田中貞次、和泉武志の16人。幹部は、北沢憲太郎、沼田九右衛門、武井紀義(後の出羽家一家四代目)、中島久見、高野吉三郎、石渡幸吉、板垣勇、佐藤由哉、松本三郎、土田元勝、石川清友、立原竹次、須永武美、遠藤一夫、上田久、富浦七五郎、小林英亮、秋葉満義、福井宇之輔だった。
昭和22年(1947年)7月8日、関根組は恐喝容疑で手入れを受けた。このとき、木津政雄が隠匿していた航空機用機関銃が発見された。機関銃の不法所持容疑により、関根賢、木津政雄など関根組幹部、多数の組員が、連合国軍総指令部(GHQ)に検挙され、軍事裁判を受けて服役した。関根賢は小菅刑務所に収監された。関根賢は留守を藤田卯一郎に任せた。これで、関根組は解散状態に追い込まれた。藤田卯一郎は、新たに「藤田組」を結成し、組織の存続を図った。だが、GHQによる団体等規正令により、藤田組は昭和24年(1949年)3月に、関根組は同年6月に それぞれ解散を命じられて消滅した。
[編集] 松葉会結成後
昭和28年(1953年)3月に、藤田卯一郎 が、関根組幹部だった久野益義、田山芳徳、木津政雄、和泉武志、武井紀義、山中吾一(後の榎戸一家五代目)らとともに、旧関根組と旧藤田組の組員を集めて松葉会を結成した。初代会長には、藤田卯一郎が就任した。松葉会の名称は、関根賢のかつての親分、河合徳三郎の家紋が「松葉」であったところから名付けられたといわれる。関根賢は出所後に隠退し、関根建設社長に転進した。
長女の珠美が都立高校を中退した頃、藤田卯一郎は妻・志乃と離婚した。その後、米子と再婚した。
昭和31年(1956年)12月20日、東京浅草の料亭「銀河」で行われた幸平一家九代目総長・本橋政夫の自宅増築祝いを兼ねた忘年会に、松葉会・佐藤栄助が招かれた。この席で、佐藤栄助と佐藤の若衆が、佐藤の兄弟分だった幸平一家貸元・剛島市太郎の若衆に殴打された。4時間後、この報を聞いた中村益也(後の松葉会五代目)は、単身で本橋正夫宅に乗り込み、拳銃を発砲して、本橋の若衆1人を射殺した。翌12月21日午後3時すぎ、藤田卯一郎は、住吉一家三代目・阿部重作からの電話を受け、阿部重作が中村益也を保護していることを知った。同日の夕方、中村益也は、阿部重作に伴われて目白警察署に自首し、その後懲役10年の実刑判決を受け、宮城刑務所に服役した。阿部重作が奔走して、両者の全面抗争は回避された[2] 。
昭和34年(1959年)2月、藤田卯一郎は、松葉会を「政治結社松葉会」として届け出た。同年9月15日、松葉会は日比谷公会堂で発会式を行い、結成趣意書・四か条からなる綱領・役員人事を発表した。発会式は、児玉誉士夫や三浦義一、2人の自民党代議士など約2500人が集まった。藤田卯一郎が会長となり、総務会長には久野益義、事務局長には小林清、幹事長には田山芳徳、綱紀委員長には木津政雄、組織委員長には和泉武志が就いた。同年11月28日、企画部長・志賀三郎が7人の会員を連れて、全学連と社会党と総評本部を訪れ、全学連を中心とした安保改定反対のデモ隊が国会に乱入したことに対する抗議書を、手渡した。
昭和35年(1960年)1月16日、岸信介首相を代表とする安保改定調印全権団の出発を阻止しようとした全学連に対し、松葉会は羽田空港に約200人を動員した。
同年2月9日、妻・米子が38歳で病死した。同年3月14日、浅草・長敬寺にて葬儀が行われた。葬儀委員長は、住吉一家三代目・阿部重作が務めた。衆議院議員・岡崎英城、前東京都知事・安井誠一郎、前参議院議員・重政庸徳らから花輪が手向けられた。葬儀回状には、重政庸徳、迫水久常、安井謙、西郷吉之助、松永東、大久保留次郎、丹波喬四郎、田中栄一、荒船清十郎、小西寅松など衆参両議員17人と安井誠一郎、東京都知事・東竜太郎、都議会議員7人、地方議員や区議会議員24人の政治家の名前があった。これを同日の『毎日新聞』夕刊が「政治家とヤクザのクサレ縁」として報道した。これに対して、中央支部長・志賀三郎と事務局次長代理・市橋利治が、有楽町の毎日新聞社を訪れて、抗議した。その後、場所を日比谷の料亭「松本楼」に変えて、毎日新聞社の責任者との交渉が続けられたが、毎日新聞社側は「再調査をして後日返答する。誤りがあれば、訂正文を掲載する」と返答した。二度目の交渉からは、市橋利治が中心となって話し合いを持った。後日、毎日新聞社は「再調査の結果、記事の内容に誤りは認められない」と回答した。同年3月28日、市橋利治は毎日新聞社との交渉継続を断念し、毎日新聞社襲撃を決断した[3] 。同年4月2日午前3時、市橋利治、松葉会西支部・渡辺博昭、田沼征四郎、静栄蔵ら十数人が毎日新聞社を襲撃し、輪転機に砂を入れ、印刷を止めた。この後、市橋利治、渡辺博昭、田沼征四郎、静栄蔵の4人は、自ら警察署に出頭した(毎日新聞社襲撃事件)。
同年4月26日、安保改定阻止第5次行動に対して、藤田卯一郎は自らが先頭に立ち、松葉会会員400人を動員した。
昭和36年(1961年)10月、藤田卯一郎は、上萬一家五代目を継承した。同年10月30日、東京浅草の料亭「浜清」で、跡目披露が行われた。推薦人は、上萬一家の志村九内だった[4]。
昭和38年(1963年)9月5日、石川県山中温泉のキャバレー「リンデン」で、松葉会金沢支部の者が、二代目本多会山中支部の者に射殺された。その報復として、松葉会金沢支部6人が、本多会山中支部前で、本多会山中支部長を射殺した。藤田卯一郎は応援部隊220人を、山中温泉に送った。二代目本多会・平田勝市会長も200人の応援部隊を送り込んだ。この抗争は、関根賢や児玉誉士夫が間に入って、手打ちとなった。
同年12月21日[5]、松葉会は、錦政会、住吉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。藤田卯一郎は、関東会初代理事長に就任した。関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。
昭和39年(1964年)2月、警察庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。同年での松葉会会員の検挙者は、728人だった。
昭和39年(1964年)5月25日午後1時から、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、藤田卯一郎は、二代目本多会・平田勝市会長と、五分の兄弟盃を交わした。このときの結縁披露宴では「御芳名録」まで作成された。取持人は、極東関口一家初代・関口愛治、媒酌人は箸家四代目・秋野傳三郎だった。住吉会顧問・阿部重作と全国港湾荷役振興協会会長・藤木幸太郎が山口組との間に入り、山口組・田岡一雄組長に「田岡一雄組長は結縁式に出席しない。関東の博徒系の親分衆も結縁式には出席しない」と云う条件で、神戸市での結縁式を認めさせた。藤田卯一郎の兄弟分だった北星会・岡村吾一会長は、結縁式に出席した。
同年6月20日、港区芝公園で、関東会定例総会が行われた。初代理事長藤田卯一郎に代わって、住吉会・磧上義光会長が二代目理事長に就任した。同年6月24日、磧上義光が逮捕された[6]。
同年11月、兵庫県有馬温泉の「池の坊月光園」で、藤田卯一郎と平田勝市に、京都の中島連合会会長・図越利一、大阪の藤原会会長・藤原秋夫、大阪の直嶋義友会会長・山田祐作、名古屋の稲葉地一家総裁・上條義夫、静岡の中泉一家総長・播磨福作を加えた7人兄弟盃の和合式が行われた。
藤田卯一郎の舎弟で榎戸一家五代目・山中吾一が隠退し、堤俊夫が榎戸一家六代目を継承した。これを機に、藤田卯一郎は、葛飾区柴又の料亭「川甚」で、堤敏夫と堤の兄弟分・佐藤武男(後の榎戸一家七代目)ら4人と親子盃を交わした。二代目本多会・平田勝市会長が取持人をつとめた。
昭和40年(1965年)1月、関東会が解散した。同年2月、錦政会・稲川角二会長が、賭博開帳図利罪で逮捕された。同月、日本国粋会・森田政治会長が拳銃密輸容疑で逮捕された。同年3月、錦政会と北星会が解散した。同年3月10日、松葉会系菊池興業が解散声明を出した。同年3月30日、茨城県の松葉会4支部が解散声明を出した。同年5月、住吉会が解散した。同年6月16日、警視庁組織暴力犯罪取締本部と上野警察署は、松葉会本部事務所と浅草の藤田卯一郎宅など4ヵ所を拳銃不法所持容疑で家宅捜索し、藤田卯一郎を全国指名手配した。同日深夜、藤田卯一郎は札幌市内で、北海道警捜査二課員に逮捕された。同年9月20日、藤田卯一郎は、松葉会解散を宣言した。同日、墨田区の妙見山法性寺で解散式が行われ、藤田卯一郎が代紋入りの会旗を焼いた。
昭和43年(1968年)7月8日夜、東京都新宿区の「ホテルみやこ」で、藤田卯一郎は心筋梗塞の発作を起こして倒れた。同日午後11時50分に死去。享年61。
同年7月11日に、身内だけの密葬が行われた。同年10月8日、東京都浅草の本願寺で、本葬が行われた。葬儀委員長は、元北星会会長・岡村吾一。喪主は、遺族と関根建設社長・関根賢。施主は、久野益義、田山芳徳、和泉武志、小林清、大日本平和会会長・平田勝市、直嶋義友会会長・山田祐作、中島会会長・図越利一、稲葉地一家総裁・上條義夫、侠友会会長・播磨福作らが当たった。
[編集] 註
- ^ 昭和5年(1930年)、佐藤栄助は、上京して日本大学に入学し、日大の学生時代には益戸克己の家に下宿していた
- ^ 幸平一家・本橋正夫総長も住吉一家三代目・阿部重作の舎弟だった
- ^ 毎日新聞社襲撃に関して、藤田卯一郎からの指示はなかった
- ^ 志村九内は、関根賢の親分・河合徳三郎の兄弟分だった
- ^ 「第046回国会 法務委員会 第30号」と「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」では、結成披露日を12月21日と記載されているが、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9では11月21日と記述されている
- ^ 「広域暴力団」に指定された10団体の中で、最初のトップの逮捕だった
[編集] 参考文献
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- 松江八束建設業暴力追放対策協議会「暴力団ミニ講座 37)松葉会」
- 「第046回国会 法務委員会 第30号」
- 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」