東欧諸国のビザンティン建築
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当記事「東欧諸国のビザンティン建築」は、ブルガリアやロシア、ルーマニアに伝播したビザンティン建築を便宜的にまとめたものである。
目次 |
[編集] 概説
中世、ビザンティン文化の影響下に入った東欧では、東方正教とその建築を受け入れ、東ローマ帝国が滅びた後もその伝統を守り続けた。
しかし、長い歴史を紐解くと、東欧の諸民族と東ローマ帝国との接触は決して和やかなものでも、安定したものでもなく、熾烈な衝突も繰り返した。東ローマ帝国の文献には、北方からやってくるこれらの蛮族に対する恐怖が切々と綴られている。しかし、スラブ民族がキリスト教化するにつれて、概してその関係は次第に安定したものになっていった。スラブ人は東ローマ帝国だけではなく、他の様々な国とも国境を接していたが、結果的には東ローマ帝国の影響を最も受けるようになった。このため、特に建築についての知識をもたなかった地域では、東ローマ帝国の施工技術や知識をより大きく取り入れることになる。
[編集] 地域と歴史
[編集] ブルガリア
東ローマ帝国にとって最初に脅威となったのはブルガリアで、彼らは680年頃からバルカン半島北部に定住するようになった。最初のスラブ人国家であるブルガリア帝国は軍事的によく組織され、800年前後には早くも東ローマ帝国に圧力を加え、813年にはコンスタンティノポリスを包囲するまでになるが、864年にボリス1世がキリスト教に改宗し、ビザンティン文化を取り入れるようになった。ただし、東ローマ帝国との関係はその後も安定せず、927年にはシメオン1世が東ローマ帝国に敵対するとともに、コンスタンティノポリスから独立したブルガリア正教会を設立するが、1018年にバシレイオス2世によって東ローマ帝国に併合されている。
ブルガリアのキリスト教建築が発達するのは、1187年に再び独立するまでの間なので、ブルガリアのビザンティン建築は、むしろ単にビザンティン建築と言って良いかもしれない。
メッセンブリア(現ネセバル)は、14世紀に黒海貿易によって栄えた町で、しばしば「ブルガリアのラヴェンナ」と呼ばれる。現在はブルガリア領であるが、中世のほとんどの時期は東ローマ帝国の勢力下におかれていた。
町の最も古い聖堂はブルガリア人の侵入前に建設された旧大主教座聖堂で、6世紀に創建されたバシリカである。ブルガリアの影響下にあった時代の聖堂としては、10世紀か11世紀に建設されたアギオス・ヨアンニス・プロドロモス聖堂が残る。14世紀に建設された他の聖堂と違い、粗石を積んだだけの無装飾な外壁を持ち、ドームの高い鼓胴壁が印象的である。
後の時代に建設された四円柱式内接十字型のアギオス・ヨアンニス・アレイトルゲス聖堂(下部構造のみが残る)、キリスト・パントクラトール聖堂などの教会堂には、外壁に市松模様やジグザクの模様積みが施され、ビザンティン建築後期の特徴である外壁の装飾に対する意識の向上を見ることができる。また、ロマネスク建築の影響と思われる持ち送り棚の装飾も施されているが、これは黒海貿易がジェノヴァの支援を受けたものであったことに関係するようである。
バチュコヴォ修道院は、11世紀後半に東ローマ帝国の将軍グリゴリオス・パクリアノスによって創建されたもので、当時の規律書(ティピコン)が伝えられている。建物の多くはポスト・ビザンティンのものであるが、墓所聖堂が11世紀、アルヒアンゲロス聖堂が12世紀に建設されたものである。墓所聖堂には12世紀のコンスタンティノポリスの画家の手による美しいフレスコ画が残っている。
ブルガリアでおそらく最も有名なビザンティン建築であるリラ修道院は、10世紀にリラのヨアンニスによって創建された。ただし、現在の僧院は当時の僧院とは違う場所に存在するポスト・ビザンティン建築である。この修道院は東ローマ帝国の援助や支援をほとんど受けることがなかったので、ブルガリア建築と言ってよい。中世に建設されたものは1335年に建設されたフレリョの塔のみで、最上階の礼拝堂には14世紀のフレスコ画が残っている。
[編集] セルビア
セルビアの教会堂建築は、主に3つの時代に分類される。第1は、ステファン・ネマニャによって創始されたネマニッチ朝初期の時代で、1170年から1282年までの間を指し、ラシュカ派あるいは古セルビア派などと呼ばれる。この時期のセルビア王国はアドリア海のラグーザ(現ドゥブロヴニク)やカタロ(現コトル)などを通じて西ヨーロッパとの交易も盛んであり、また、第4回十字軍の派遣によって東ローマ帝国の影響力が著しく低下したこともあって、東西の影響を受けた独特のビザンティン建築を見ることができる。
1168年にステファン・ネマニャが設立したクルシュムリャのスヴェティ・ニコラ聖堂(現在は廃墟)は、ビザンティン建築の特徴をよく備えたものである。しかし、1183年頃に建設されたストゥデニツァ修道院のボゴロディツァ聖堂は、スヴェティ・ニコラ聖堂と同じような平面を持ちながら、扉口や外部の持ち送りなど、立面は完全にロマネスク建築のものになっている。この傾向は1250年に建設されたソポチャニ修道院中央聖堂やステファン・ウロシュ3世デチャンスキのために1335年に建設されたデチャニ修道院中央聖堂などの建築物に見られ、外観だけを見るとビザンティン建築の要素はほとんど除外されているように思える。
デチャニ修道院中央聖堂はロマネスクの影響の強い建築物であるが、実際には、当時のセルビア王国は、ステファン・ウロシュ2世ミルティンによってかなりビザンティン化しつつあった。これがセルビアのビザンティン建築の第2段階で、セルビア・ビザンティン建築が確立された時期であると言ってよい。ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの治世が終わるまで、バルカン半島の東ローマ帝国領はセルビア王国に浸食されていったが、彼らは占領地から東ローマ帝国の建築家や技師を雇い、多くの修道院を建立した。ただし、この第2期において重要な役割を担ったのは、最盛期の王ドゥシャンではなく、ミルティン王である。
ミルティンは重要ないくつかの建築物を残しているが、その中で最も重要とされるのが1303年にアトス山に建設されたヒランダル修道院の中央聖堂である。充分に研究された建築物ではないが、アトス山では伝統的な四葉形の、純粋なビザンティン建築で、テッサロニキかコンスタンティノポリスの建築家が施工したものと考えられる。アトス山でも重要な役割をになう修道院の聖堂として、セルビアの教会堂建築にかなり大きな影響を与えた。この他、ミルティン王に関わる建築物としては、1307年のプリズレンのボゴロディツァ・リエヴィシュカ聖堂、スタロ・ナゴリチノのスヴェティ・ジョルジェ聖堂などがある。1314年に建設されたオホリトのスヴェタ・ソフィア聖堂のファサードなどは、末期ビザンティン建築特有のポーティコ付きのものになっている。また、より新しい形態を獲得したものとして、1321年に建設されたグラチャニツァ修道院中央聖堂を挙げることができる。
セルビアのビザンティン建築の第3の段階は、ドゥシャン王の死後、オスマン帝国に滅ぼされるまでの間である。オスマン帝国の脅威は王国にかなりの圧力を与えていたようであるが、王国は経済的繁栄を続けており、この時期の建築群はモラヴァ派と呼ばれる。モラヴァ派の主要な特徴は、ヒランダル修道院中央聖堂に見られる四葉形の平面形式の墨守と垂直性の嗜好、そして外部の装飾である。
1375年に建設されたラヴァニツァのヴォズネセーニェ聖堂は、ビザンティン建築特有の模様積みの外壁となっているが、窓に額縁や板石をくり抜いたバラ窓などの装飾が施されている。クルシェヴァツにある1378年創建の宮廷礼拝堂(ラザリツァ聖堂)になると、外部装飾はさらに洗練され、ますます華やかなものとなった。外壁の市松模様が印象的な1417年建設のカレニチのボゴロディツァ聖堂はモラヴァ派建築の傑作であるが、こうした装飾の起源はあまり分かっていない。
[編集] ロシア
ロシアと東ローマ帝国の関係は、860年に北方の民族ルスがコンスタンティノポリスを襲撃したことによって始まる。後にキエフ大公国と呼ばれるこの国は、10世紀にコンスタンティノポリスを襲撃し、911年に東ローマ帝国と非常に有利な通商条約を結ぶことになるのみでなく、945年にはルスという国として承認された。
キエフ大公国とキリスト教の関わりは、945年にイーゴリ公妃オリガがコンスタンティノポリスを訪問し、ハギア・ソフィア大聖堂で洗礼を受けたとされることに始まる。この頃はまだ、キエフ大公国では北欧神話の神々が崇拝されており、彼女の洗礼も個人的なものにすぎなかったので、しばらくの間は特に進展はなかった。しかし、980年にウラジーミルが大公に就任すると、彼は国教として東方正教を選び、国民を強制的に正教会に改宗させた。当時のキエフ大公国は、西ヨーロッパを凌ぐほどの経済的繁栄を享受していたため、東方正教の活動にともなってかなり多くの壮麗な教会堂が建立された。
キエフを大都市に拡大した賢公ヤロスラフ1世は、市中心部にスヴャターヤ・ソフィア大聖堂を建立し、スヴャターヤ・イリニ聖堂、スヴャトォイ・ゲオルギー聖堂、府主教館、黄金門など、明らかにコンスタンティノポリスを意識した建築物を建設したが、これによってキエフの建築職人の技量は著しく向上した。残念ながら、建設された教会堂の大部分は木造建築物であったため、今日それを目にすることはできないが、幸いにも最も大きなスヴャターヤ・ソフィア大聖堂が現在に残る。スヴャターヤ・ソフィア大聖堂は、1040年に完成した巨大建築物であるが、17世紀に大きな損害を被ったために外観はかなり変更されている。平面は、ビザンティン建築では標準的な内接十字型で、これを3重の側廊が取り囲む形式となっている。ロシアでは、以後も円蓋式バシリカやスクィンチ型などの平面形式は全く取り入れられず、常に内接十字型を採用した。その意味でロシアの建築は、少なくとも平面計画においては、ビザンティン建築の構想に忠実であり続けたといえる。
ヤロスラフ1世の死によって、キエフ大公国の権威は次第に低下し、その建築活動も停滞したが、権力の分散は地方都市の発展を促し、ユーリー・ドルゴルーキーによってスズダリが、アンドレイ・ボゴリョブスキーによってウラジーミル、モスクワなどが、次第にキエフに代わる都市として成長していった。
アンドレイはウラジーミルをロシア第一の都市にすべく、積極的な建築活動を行った。1160年に創建(1189年に再建)されたウスペンスキー大聖堂などが代表的なものであるが、その他の建築物はあまり現代には残っていない。ポクロフ聖堂は1165年に建設された小型の教会堂だが、アンドレイ公の活動を示す美しい聖堂である。外壁に彫刻装飾を採用することは以後のロシア建築で見られるが、細部においてはロマネスク建築の影響が認められる。これは、ウラジーミル大公国の建築がドイツを含む各国から招かれた職人によって建設されたためである。フセヴォロド3世の治世になると、ウラジーミル・スズダリの建築はより装飾的なものになり、1197年に建設されたドミートリー宮廷礼拝堂やユーリュフ・ポルスキーのスヴャトォイ・ゲオルギー聖堂(1234年)などは、壁面を彫刻装飾で覆い尽くすほどになった。
北方十字軍とタタールのくびきによる長い断絶の後、ロシア建築はモスクワ大公国によって再び活動を興す。12世紀に植民されたモスクワは、最初は小さな要塞都市にすぎなかったが、1300年頃に領地を拡大し、1326年には、ロシアの府主教座を移転させるまでに至った。ただし、建築活動がはっきりするは1400年以後のことで、東ローマ帝国の滅亡がかなり大きな契機となった。というのも、東ローマ帝国の後継国家として、モスクワは第3のローマを自認したが、その役割を引受けるほど、モスクワは建築的資産をほとんど持っていなかったからである。
このため、皇帝イヴァン3世は、イタリア人建築家アリストテーレ・フィオラヴァンティの雇用を決定し、ウスペンスキー大聖堂の建設を命じた。すなわち、ルネサンス建築の導入である。フィオラヴァンティは旧スペンスキー大聖堂と同じ平面の教会堂を建てることを要求されたが、彼はルネサンス建築を取り入れた優れた建築を創始した。16世紀には、グラノヴィタヤ宮殿がピエトロ・アントニオ・ソラーリオとマルコ・ルッフォによって設計され、スヴャトォイ・ミハイル大聖堂がアレヴィシオによって建設された。
- この時期の建築については北方ルネサンス建築も参照。
[編集] ルーマニア
14世紀にハンガリー王国の支配下から逃れたワラキア公国とモルダヴィア公国は、東方正教を受け入れ、ビザンティン文化を受容する最後の国となった。彼らはそれほど長く独立国として存続することはできず、1462年にはワラキアが、1504年にはモルダヴィアが、それぞれオスマン帝国に降伏する。しかし、オスマン帝国の直接的な支配は18世紀まで行われず、自治権を認められていたため、多くのギリシャ人がこの地に渡ってきた。
ただし、当時ルーマニアに導入された建築は、疲弊したコンスタンティノポリスのものではなく、より高度に発達していたセルビアのビザンティン建築であった。1386年に建設されたコズィア修道院の中央聖堂は、セルビア王国のモラヴァ派建築である。
オスマン帝国に屈した後、ワラキアの建築活動は16世紀から活発になるが、1502年に建設されたデアル修道院の中央聖堂はモラヴァ派による建物で、コズィア修道院の中央聖堂とほとんど変わりない。しかし、デアルの修道院はモラヴァ派にはない装飾で飾られており、当時、教会堂の装飾はアルメニアやグルジア、そしてオスマン帝国からの影響を受けていたことが指摘されている。
ワラキアの教会堂は、ほとんどがアトス山の修道院に見られる三葉型の建築物であるが、モルダヴィアの場合は少し特殊である。モルダヴィアはハンガリーやポーランドを通じて14世紀まで西ヨーロッパの影響下にあり、16世紀にはオスマン帝国の属国となった。このため、他の地域では見られない変わった教会堂が建設されている。1488年に建設されたヴォロネツの修道院の中央聖堂はセルビア起源の平面を持っているが、ドームの掛け方はかなりユニークで、45度にずれた2連のアーチによって成り立っている。この構造がどこから伝わってきたのかは不明で、今のところモルダヴィアの独自様式と考えるのが自然である。また、ヴォロネツのほか、モルドヴィツァ、スチェヴィツァなどの修道院の外壁に描かれた鮮やかな絵画は、他の正教圏では全く見られない。
[編集] 参考文献
- シリル・マンゴー著・飯田喜四郎訳『ビザンティン建築』(本の友社) ISBN 4894392739
- リチャード・クラウトハイマー著『Pelican History of Art EARY CHRISTIAN AND BYZANTINE ARCHITECTURE』(YALE UNIVERSITY PRESS)ISBN 978-0140560244
- ジョン・ラウデン著・益田朋幸訳『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』(岩波書店) ISBN 978-4-00-008923-4
- 高橋榮一著『ビザンティン美術 世界美術大全集 西洋編6』(小学館)ISBN 9784096010068
- 益田朋幸著『世界歴史の旅 ビザンティン』(山川出版社)ISBN 9784634633100
- ニコラス・ペヴスナー他著 鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)ISBN 9784306041615