松平光通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 光通(まつだいら みつみち、寛永13年5月7日(1636年6月10日) - 延宝2年3月24日(1674年4月29日))は、越前福井藩の第2代藩主。父は初代藩主・松平忠昌(光通は嫡男)で、結城秀康の孫に当たる。母は広橋氏。正室は松平光長の娘・国姫。側室は片桐氏。官位は従四位下。左近衛権少将。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 藩主時代
寛永13年(1636年)5月7日生まれ。正保2年(1645年)、父の死去により10歳の幼少で後を継ぐ。このとき、庶兄の松平昌勝(仙菊)に5万石を分与して松岡藩を、庶弟の松平昌親(辰之助)に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させた。幼少のため、しばらくは本多富正をはじめとする結城秀康以来の宿老の補佐を受けたが、その宿老が老齢のために相次いで死去すると、親政を開始する。光通は政治的に優秀で、山に関する法律をはじめ、家中についてや武道・武具について、税制についての様々な法律を制定、もしくは改正して藩政の地盤を固めた。また、伊藤坦庵を京都より招聘して儒学を中心とした文教を奨励して文化的に藩を発展させる。光通が教養人だったこともあって、大安寺や新田義貞戦没の地に石碑を築き、平泉寺における楠木正成墓石の修補を行なうなどして、士気の高揚と勤王の奨励を目指した。また越前松平家の菩提所として大安禅寺を創建している。
しかし相次ぐ改革は、出費が多くなって藩財政を極度に悪化させた。このため、財政再建のために寛文元年(1661年)、幕府の許しを得て藩札を発行する。これは、日本初の藩札であり、福井寛文札と呼ばれた。だが、寛文9年(1669年)4月には領内の勝美村で大火が発生し、城下と城郭の大半、そして天守閣が焼失した。このため、幕府から5万両を借りて寛文12年(1672年)に城郭を再建したが、天守閣は再建されなかった。財政悪化が原因であった。
[編集] 自殺
光通の妻は松平光長の娘・国姫であるから、光通と国姫は従兄弟同士に当たる。国姫は京都の公家からも賞賛されるほどの和歌の達人で、光通とも仲は良かった。しかし不幸なことに、光通と国姫との間には女児二人しか生まれず、男児ができなかった。ところが光通には、国姫以外の女性との間に男児をもうけていた。松平直堅(幼名は権蔵で、のちの越後糸魚川藩祖)である。光通としては親の情から、我が子に家督を継がせたかった。
ところが、国姫の祖母である高田殿(第2代将軍・徳川秀忠の娘で、松平忠直の妻)が、妾腹の男児に家督を継がせるなどとんでもないと猛反対し、光通に対して福井藩の跡継ぎは、国姫との間に生まれた男児にするように強要し、遂には起請文まで取るに至った。このため、光通と国姫の仲は急速に悪化し、国姫は寛文11年(1671年)に男児を産めないことを苦にして自殺してしまった。
国姫の死を悲しむのもつかの間、光通に追い討ちがかかる。何と、我が子の権蔵が福井から出奔してしまったのである。これは、国姫の父・光長が娘の死の原因が彼にあるとして命を狙い始めたためであるが、妻の死や我が子の出奔など、家庭的に苦難が続く中で光通は遂に精神的に耐えられなくなり、延宝2年(1674年)3月24日、庶弟の松平昌親に家督を譲るようにとの遺書を残して、自殺して果ててしまった。享年39。
墓所:福井市の大安禅寺。1877年には東京都品川区南品川海安寺へ神葬。
跡継ぎ問題から不幸になった藩主であり、彼の死去はその後の福井藩に減封・改易などの影響をもたらした。
[編集] 兄弟
[編集] 子女
|
|
|