松平光長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 光長(まつだいら みつなが)は江戸時代の大名。結城秀康の孫で、松平忠直の子。徳川家康の曾孫に当たる。越後高田藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代前・中期 | |||
生誕 | 元和元年11月29日(1616年1月18日) | |||
死没 | 宝永4年11月17日(1707年12月10日) | |||
別名 | 仙千代(幼名) | |||
戒名 | 慧照院殿前越州太守従三位羽林中郎開心一法大居士 | |||
墓所 | 東京都港区虎ノ門の光明山天徳寺 | |||
官位 | 従四位下、左近衛権少将、越後守、 従三位、右近衛権中将 |
|||
氏族 | 越前松平家 | |||
父母 | 父:松平忠直、母:徳川秀忠の娘・勝姫 | |||
妻 | 土佐(毛利秀就の娘) | |||
兄弟 | 松平光長、永見長頼、永見長良、 亀姫(高松宮好仁親王妃)、鶴姫(九条道房室) 閑(小栗正矩室) |
|||
子 | 綱賢、国姫(松平光通室)、稲姫(伊達宗利室) 綱国、宣富 |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
越前北ノ庄藩・松平忠直と第2代将軍徳川秀忠の娘・勝姫の間に生まれる。父・忠直は2代将軍・徳川秀忠と仲が悪く、粗暴な一面もあって配流されたことによって家督を継ぐが幕命によって叔父・松平忠昌が北ノ庄藩主となり、入れ替わりで忠昌の領地であった高田領を継いだ。
[編集] 越後騒動
延宝2年(1674年)1月30日、正室である毛利秀就の娘・土佐との間の子で左近衛権少将にまで昇っていた嫡子の綱賢(幼名・徳千代)が42歳で没した。綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかっため急ぎ世継を定めねばならなくなった。重臣たちの評議の結果、甥にあたる永見万徳丸(異母弟・永見長頼の子)を世継ぎとすることが決まり、万徳丸を養子として迎えた(松平綱国)。ところが、この縁組の過程を巡って異母弟・永見長良(長頼の同母弟)や義弟にあたる家老・小栗美作などの重臣たちの争いが激化して、いわゆる越後高田騒動に発展、将軍徳川綱吉の怒りを買って改易となり、光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩に配流された。
元禄11年(1698年)、光長は松平宣富を養子に迎えて美作国津山藩主として家名再興を許される。貞享4年(1687年)、綱国とともに召還される(綱国は宝永5年(1708年)に出家して享保20年(1735年)3月5日に74歳で死去)。幕府からは津山藩とは別に毎年3万俵が与えられた。その後は静かな余生を送り93歳の長寿を全うした。
[編集] 略年表:官職位階履歴
- 1624年(寛永元年) 越後高田藩26万石で新封。
- 1629年(寛永6年) 将軍徳川家光の一字を賜り、元服し、光長と名乗る。ついで、従四位下左近衛権少将兼越後守
- 1651年(慶安4年) 従三位右近衛権中将
- 1681年(天和元年) 伊予松山藩に配流。
- 1687年(貞享4年) 召還。
- 1697年(元禄10年) 隠居。
|
|
|