松平家忠
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松平 家忠(まつだいら いえただ)
- 深溝松平家第4代当主。(本項にて解説)
- 東条松平家第3代当主。松平忠茂の子。系譜上では松平忠吉(徳川家康4男)の養父。通称、甚太郎。別名、家次。1.の家忠の妹婿。天正9年11月1日(1581年11月26日)没。
- 形原松平家第5代当主。第4代当主松平家広の子。天文16年(1547年) - 天正10年10月16日(1582年11月11日)。紀伊守。母は於大の方の姉、於丈の方。徳川家康の従兄弟。子は松平家信(摂津国高槻藩および下総国佐倉藩主)。
松平 家忠(まつだいら いえただ、1555年(弘治元年) - 1600年9月8日(慶長5年8月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏の家臣。松平伊忠の長男。正室は水野忠分の娘。
深溝松平家の第4代当主で、幼名は又八郎。徳川家康に仕えて、主要な合戦に参加して武功を挙げた。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、武蔵国忍城に1万石で入った。本来忍は家康の四男・松平忠吉が10万石で与えられたものだが、忠吉はまだ幼少のため、彼が成人するまでは家忠が預ったものである。その後、忠吉が正式に城主になると改めて下総国小見川に移封された。
慶長5年(1600年)、家康の命で鳥居元忠、内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、石田三成ら西軍の挙兵を誘った。そして目論見どおりに三成は挙兵したが、家忠らは関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。享年46。
[編集] 家忠日記
家忠は戦国武将としてよりも、彼が記した日記である『家忠日記』(いえただにっき)の著者として有名である。これは天正5年(1577年)10月から文禄3年(1594年)10月までの17年間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記である。基本的には天候や季節の淡々とした記述であるが戦の記述も多くある。出来事や天候に対する自らの感想など感情的な文章はほとんど書いていないが、能を鑑賞したり茶の湯を楽しんだとの記述があり、家忠の文化人としての人間性をうかがう事ができる。
また、当時の政治情勢や家康の生活ぶり、そして大名の日常生活や習慣を知る上では重要な史料であると言われている。
[編集] 参考文献
- 盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書、1999年) ISBN 4047033049
[編集] 関連項目
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