松平康隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平康隆(まつだいら やすたか、1930年1月22日 - )は、東京都出身の元全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉会長。アジアバレーボール連盟終身名誉会長。都立城南高校、慶應義塾大学法学部卒。学位は法学士(慶應義塾大学)。2004年、叙勲。旭日中綬章受章。加賀藩家老職の松平大弐家の血を引く。
[編集] 経歴
1952年日本鋼管に入社。1960年まで選手や監督兼選手として活躍。1961年に6人制バレーを学ぶためにソ連に留学。全日本男子のコーチを経て、1965年に全日本男子チームの監督に就任。1968年のメキシコ五輪で銀メダル、1972年のミュンヘン五輪で金メダルへと導いた。現在世界中で使われている速攻、移動、時間差などの攻撃システムの基礎を築き上げ、バレーボールの普及発展にも貢献した。
1998年日本人で初めてバレーボール殿堂入りを果たした。 その後JOC副会長やIOC理事を務めJOCでは会長候補でもあった。 監督退任後は南米に指導を行ったが皮肉にも体型や瞬発力に勝る 南米が台頭してくると日本が国際大会での優勝から遠ざかった。
[編集] エピソード
松平はミュンヘン五輪の全日本男子チームに対して、逆立ちをして9メートル以上歩けるようにさせる練習をした。松平は「逆立ちで9メートル以上歩けるようにならなければ、オリンピックに行かせない。」と言ったが、大古はなかなかできず、苦労した。
松平はバレーのファンを増やすために、積極的にバレーの練習を一般公開した。さらに話題づくりのために、選手に対して以下のようなユニークなキャッチフレーズをつけた。
- 中村祐造 「ガッツ祐造,チームを世界一に引っ張っていく機関車,率先垂範のキャプテン」
- 猫田勝敏 「世界一のセッター,日本オーケストラの指揮者」
- 森田淳悟 「フジヤマ・ブロック」
- 大古誠司 「世界一の大砲」
ミュンヘン五輪の全日本男子チームを盛り上げるために「アニメドキュメント ミュンヘンへの道」という男子バレー選手が登場するテレビ番組を企画し、監修を行った。
五輪前に不慮の事故で長男を亡くしたが五輪では一言も報道陣や選手にそのことに触れさせず優勝後に選手から触れられると号泣したという。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本のバレーボール選手 | バレーボール監督 | 選手兼任監督 | 1930年生