栃錦清隆
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栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - 1990年1月10日)は、東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身の大相撲の第44代横綱。本名、大塚清(おおつか きよし)(のちに栃木山の養子になり、中田姓)。身長178cm。初代若乃花幹士との栃・若時代で戦後衰退していた相撲界に、最初の黄金時代を築いた。軽量の業師のイメージで語られることが多いが、横綱昇進後は体重も増え寄り・押し中心の相撲。引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめ、両国国技館建設などに尽力した。小岩駅構内に彼の銅像が立っている。愛称・土俵の名人、マムシ。
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[編集] 略歴
[編集] 入門から横綱昇進まで
昭和14年1月初土俵。四股名の栃錦は師匠春日野が自分の現役名栃木山と当時の兄弟弟子大錦からつけた。この場所4日目双葉山が安藝ノ海に敗れて連勝が69でストップしたが、この「世紀の一番」を兄弟子の世話のために花道の奥にいて目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」とのちのちまで語った。
はじめ兄弟子の付け人についたが、年端もいかないうちからこきつかわれるのを見かねた師匠春日野(元栃木山)が自分付きにした。その食事の世話などをしながら、さまざまな訓話を聞かせられた。新十両が決まった時、親方の指示で靴磨きをしていたが関取にしか着用を許されないドテラを着ていることに気がついた親方に「おお、すまん、おまえはもう関取だったな」と言われたことがあった。
「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。幕下時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、この日栃錦はちゃんこ番だったにも関わらずこれに参加した。そして双葉山と組んだ瞬間に「おまえ魚くさいな」と冗談交じりに言われて放り投げられたらしい。また、師匠のつかいで料亭の双葉山を訪ねた時、その場にいた芸妓の美しさと、そんな美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。
新弟子検査は、はかりの上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したというほどの軽量で、周囲からの期待はさほど大きくなかった。ただ、師匠・春日野だけは「三段目にあがってさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。というより、有望な弟子たちをつぎつぎ兵役にとられていくなかで、春日野としては彼に期待するしかなかったのだろう、とも言われている。後に春日野は「新十両の頃はこれが唯一の関取経験になると思ったら十両でも通用した、そう思った頃には幕内になって、それでも上位には通用しないと思ったら三役、三役はつらいかと思ったら大関になった、大関になって流石に横綱は無理だと思ったら横綱、こんなことなら若い頃からもっと稽古をつけるべきだった」と語っている。
昭和19年5月十両昇進。しかし、同時に徴兵され終戦まで軍隊生活を送る。その体格のため、最初は関取とは思ってもらえなかった。上官との訓練としての草相撲でも手心を加えることがなく連戦連勝、それでようやく十両力士だと知ってもらえた。
昭和22年6月入幕。この場所は4勝6敗と負け越しだったが、このときはまだ東西制が実施されており翌場所の陥落を免れる。翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、これは強運だった。この後、幕内に定着する。
昭和26年1月、前頭2枚目で初日から7連敗したが、8連勝して勝ち越した。当人によれば、「上に負けて下に勝ったというだけ」となるが、もうひとつも負けられないところからの復活は恐るべき集中力というべきだろう。翌場所再小結、以降三役に定着し大関横綱へ駆け上がっていくので、この勝ち越しは大きかった。
平幕から三役にかけては、「相撲の技はすべて使った」といわれる業師ぶりを発揮した。幕内を通して記録した決まり手の数が48なので、必ずしも大げさな比喩ではない。現在でもそり技など滅多にでないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞するなど、「技能賞は栃錦のためにある」とまで言われた。
一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、大関昇進のころから体重も増え、無駄を排した押し相撲中心の取り口に変わった。一人の力士がその土俵人生でこれほどあきらかに取り口の変化し、そして大成した例は少ない。
大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、新弟子検査の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。
[編集] 横綱昇進と「栃若時代」
昭和29年9月、連続優勝で横綱昇進を問われることになったが、当時すでに東富士、千代の山、鏡里、吉葉山の4横綱がおり、前例のない5横綱時代が実現してしまう。このために栃錦の昇進は見送られかけたが、その気配を察した東富士が自ら引退を申し出た。同じ江戸っ子力士同士通じ合うものがあったのだろう。栃錦もすぐに付き人を使者に立てて、自分のために引退しないようにと願ったが、東富士もそういう栃錦だからこそ後事を託すに足ると感じたかもしれない。
結果的に東富士の引退と栃錦の横綱昇進は重なることになり、「一瞬の5横綱時代」とされている。番付面で5横綱が並ぶことは現在までないが、まだ髷を落とす前の東富士を交えて、5人の横綱がそろった写真が数枚残されている。
横綱昇進を果たした夜、師匠から「今日からは毎日やめる日のことを考えて過ごせ」とさとされた。横綱になったその日のうちに引退の話をされ、さすがに驚いたというが、そういう春日野は3場所連続優勝の後で突然身をひいてしまった人物である。その教えは重く受け止めた。
若い頃、部屋は違うが同門の弟弟子千代の山が自分より若いにも関わらず出世で追い越され、一時期千代の山との稽古を嫌っていた。しかし師匠に「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には「儂は昔千代の山との稽古で歯をやられたから儂だけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山自慢の突っ張りを何発も顔に当てた影響で早く歯を失なったらしい。元千代の山の九重が一門から破門されても決して険悪にはならず、後に理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。
昭和34年7月、はじめて開催された名古屋場所の14日目に優勝したものの、その日の晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故にあい死亡するという悲運に見舞われた。しかし翌日の千秋楽に若乃花を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした。
まだ現役中の昭和34年に師匠が亡くなると、前年に原則廃止されていた二枚鑑札が特例として認められ部屋を継承する。昭和35年3月場所、若乃花と史上初めて14戦全勝同士で千秋楽に対決し、敗れる。翌5月場所、初日から2連敗すると潔く引退した。
[編集] 引退後
引退後は先代から引き継いだ栃ノ海を横綱、栃光を大関にまで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。年寄春日野としては、「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。本人いわくこれは現役時代に師匠から受けた指導を受け継いだものだという。その一方で、審判部長、事業部長などを歴任し、昭和49年日本相撲協会理事長の職を武蔵川親方から継ぐ。この時、武蔵川親方の娘婿である出羽海親方(元横綱佐田の山晋松)が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。
しかし理事長となってからは新両国国技館への移転という相撲協会にとっての大事業に際して、これを無借金で建設する、椅子席観覧客の待遇を改善する、相撲茶屋制度を改革するなど、後の若貴兄弟人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を元大鵬、元柏戸などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と大きく素早い動きを見せて長期安定政権を維持した。その後、糖尿病などの影響で、一時は歩けなくなるほど体調が悪化するが、これを克服。昭和60年には落成したばかりの國技館で還暦土俵入りを披露した。
昭和63年、理事長職を二子山親方(元横綱初代若乃花)に譲る。平成元年11月、九州場所の開幕直前に脳梗塞で体調を崩し、福岡市の病院で停年を目前にして平成2年1月10日死去。64歳であった。二子山理事長は記者会見で「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と涙をぬぐい、共に土俵を盛り上げた好敵手の死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙とうなどを行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。
[編集] エピソード
- 新弟子の頃、部屋の先輩を贔屓にしていた尾上菊五郎_(6代目)に気に入られていた。のちに「春日野部屋にいた“マムシ”は今どうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。
- 同郷で仲が良かった大江戸(元幕内16枚目)と映画を見に行ったとき、「俺は天下第一等の力士になってみせる」と言うと、「大塚さん(栃錦)が天下第一等の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と笑われた。後に栃錦が大関に昇進したとき、大江戸に「おい、何か忘れてないか」と言うと、大江戸は頭を抱えて「降参、降参、勘弁して下さい」と苦笑したという。
- 土俵入りは師匠栃木山直伝の雲竜型だったが、当人によればむしろ出羽一門伝統の常陸山型(→常陸山谷右エ門を参照)と呼ぶべきものだったという。テンポの速い土俵入りでせわしないなどの批判もあったが、現役時代取口も土俵入りも早いことで有名だった師匠に体の小さい者が大型力士のようにゆったり演じても格好がつかないと指導されたのと、新横綱の場所に初日を落としてからしばらく序盤で取りこぼす負け癖がついてしまい、観客の野次が気になって土俵入りは早く終わらせたいと思っているうち、癖になってしまったためだった。
- 新両国国技館建設の折り、鹿島建設が当初出した工事の見積もりは161億5千万円であったが、二子山事業部長(当時)と二人で社長に会い、端数の11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった。社長には「今日は負かしに来た。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長には栃若二人掛かりです」と言ったという。
- ゴルフが趣味で、自慢は「角界第一号のホールインワン」。ある時のラウンドで大たたきするがバンカーショットは上手いので、一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとらは土俵の砂の上でさんざ苦労してきましたからね」とやり返した。
- 角界では別格の話好きで、取材に来た報道陣をつかまえては面白おかしく聞かせる話上手でもあった。晩年の代表作は、幕内最高優勝者に送られる「全農賞」の副賞、米30俵について。「俺が頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋じゃ、米を買ったことがないっていうじゃないか」と言ったとか。
- 死去した際、当時の日本相撲協会の幹部は、政府に「春日野に国民栄誉賞を授与して欲しい」と要請したが断られた。
- 徴兵経験があるが相撲部屋は軍隊の訓練より厳しいというのが持論だった。
[編集] 成績
- 幕内在位52場所、513勝203敗1分32休
- 優勝10回、殊勲賞1回、技能賞9回
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カテゴリ: 東京都出身の大相撲力士 | 1925年生 | 1990年没