千代の山雅信
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千代の山雅信(ちよのやま まさのぶ、1926年6月2日 - 1977年10月29日)は大相撲の力士で第41代横綱。本名杉村昌治。身長192cm。
北海道松前郡福島町に生まれる。双葉山への入門を希望していたが双葉山に勝てる男になるためにと言われて1942年(昭和17年)出羽海に入門。最初から横綱を期待され、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海(元3代目両國)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だった。双葉山の引退のほうが早くて顔を合わせることはできなかったが新入幕の昭和20年(1945年)11月場所には何と10日間を全勝、横綱羽黒山も全勝で、当時の番付上位優勝制度のため優勝は逸したが、恐るべき力士として印象付けられたことは間違いない。新入幕の土つかずは大正3年(1914年)5月場所の両國以来2人目である。翌場所4日目に初めて幕内で負けるが新入幕からの13連勝は今後も恐らく破られることはないだろう。一躍新時代のヒーローとして注目を集めた。
昭和24年(1949年)10月場所新大関で13勝2敗の初優勝、翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが横綱昇進は見送られた。昭和26年(1951年)5月場所14勝1敗で3度目の優勝、ようやく横綱となった。初めての相撲協会推挙による横綱である。昭和28年(1953年)には成績不振で休場の折に横綱返上を申し出たりもしたが、当時千代の山は横綱・大関のなかで一番若かったこともあって協会は再起に期待の方針を出し横綱返上は認めなかった。昭和30年(1955年)には連覇で復活、昭和32年(1957年)1月場所には全勝優勝を達成した。新入幕で全勝ながら優勝を逸した彼にとって何より欲しかった全勝優勝に違いない。
新弟子の頃膝に重症の関節炎を患い骨に穴を開けて膿を抜いたそうでこの影響は最後までついてまわり一時代を築けなかった。独走すると強いが混戦はどうも苦手だったらしく昭和33年(1958年)には僅かな差で優勝を逸すること3回(3場所連続)で結局昭和32年1月場所の全勝優勝が最後の賜杯になった。
優勝は6回だが実質7回と言える。全勝2回。得意は突っ張りと右四つ、寄り。脇が堅く、相手に容易に左を差させなかった。突っ張りの強烈さは並外れており、稽古台にされた栃錦の歯ががたがたになったほどである。 192cm120kgの細身ながら筋骨隆々とした体型で「鉄骨のやぐら」と称された。
昭和34年(1959年)1月場所で引退して年寄九重を襲名した。翌年に師匠出羽海が亡くなると後継者候補として名乗りを上げる。師匠は亡くなる間際に九重に継がせたかったという遺言を遺したともいわれたが確証がなく、元平幕力士出羽ノ花の武藏川親方が継承、当時九重は次の出羽海だと本人も周囲も思っていたが、後に当時大関の佐田の山が出羽海の婿養子となり、しかも出羽海親方が部屋の土地建物を全て佐田の山名義に書き換えたことで自分が継承することはないと判断、常陸山以来の分家独立不許という不文律に悩みながら申し出ると弟子13名中10名までを連れて独立することを許されたが、弟子もろとも一門から破門されて髙砂一門へと移籍することになった。一説には独立を考えた時は既に高砂に話をつけてあったという。また当時最高の腕を誇った床山が九重の所属になった。この時独立を許された背景には先代(常ノ花)の遺族が九重親方の味方に回ったという事情もあった。
独立して最初の場所である昭和42年(1967年)3月場所に弟子の大関北の冨士が初優勝、十両でも弟子の松前山が優勝した。その後、北の富士を横綱に、独立時の弟子から北瀬海弘光を関脇に育て、出身地も卒業した小学校も同じ千代の富士をスカウトし、幕内力士にはしたが、大成を見ることなく51歳で没。部屋は独立して井筒部屋を興していた北の富士が両部屋合同の形で継承した。
師匠譲りの達筆で知られ九重部屋の初代の看板は自らの手書きによるものだった。現在この看板は故郷福島町の横綱千代の山・千代の富士記念館に展示されている。
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カテゴリ: 北海道出身の大相撲力士 | 1926年生 | 1977年没