桂文三 (3代目)
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3代目 桂 文三(3だいめ かつら ぶんざ、1858年 - 1917年7月16日)は上方噺家。俗に「赤俥の文三」。本名: 高田留吉。享年57。
船場安土町丼池の上番匠の子。早くに父を亡くし、放蕩生活を送る。年少時から芸事に通じ、3代目桂文吾門下で吾市、のち2代目桂文昇門下で當昇。やがて意見の相違から師・文昇のもとを去り、當笑、あるいは2代目林家染丸などを名乗り、京都で活躍していた(なお、この染丸は代数に入れず)。
1886年(明治19年)頃、初代桂文團治の誘いで帰阪するが、ほどなくして文團治がコレラに罹患して没したので、2代目桂文枝門下で初代桂扇枝となる。それまでは美声を活かした音曲噺を得意にしていたが、喉を痛め断念。「松づくし」という踊りで人気を集め、成功する。これは、碁盤の上に山桐一本歯の下駄をはき、両手両足、果ては顔にまで、松模様の金泥の扇子を広げる技巧的な踊りである。
人気者となった扇枝は、1894年(明治27年)、師・文枝の前名である3代目桂文三を襲名、桂派の中心となる。赤い人力車を乗り回し、金の鎖や指輪を見せびらかしては、派手な衣装の影から刺青をちらつかせたりする文三の振る舞いは、大阪の名物でもあった。赤い人力車は、初代桂春團治のエピソードとなったことでも知られる。
1908年(明治41年)、師と衝突して桂派を除名され、再び京都に移る。翌年、桂派に復帰するも長続きせず、三友派に移籍するなど、落ち着きがなかった。
1914年(大正3年)頃には脊髄癆を病み、両眼失明の憂き目に遭う。法善寺紅梅亭席主・原田政吉の自宅へ引き取られ、世話を受けていた。1917年(大正6年)、師の一周忌法要を施主として勤め、遺言により2代目桂文左衛門を襲名予定であったが、その矢先に死亡した。
技量も確かであったが、晩年は悲惨で、失明の状態で高座に上っていた。堺の天神席に出演の際、高座で一席やりだしたが、客席には誰もおらず、囃子場にいた橘ノ圓都が「師匠、誰もいまへんで」と教えるまで気付かなかった。教えられた時には絶句して、実に悲しそうな表情をしたと言う。だが、失明後の時期の方が芸のあくが抜けて、名人と評された。
新作も物にし、今もしばしば演じられる『ぜんざい公社』の原型は、この3代目文三の作である。
弟子には、実子でもある4代目桂文三の他、初代桂ざこば、2代目・3代目桂扇枝らがいる。
[編集] 出典
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1978年) - p257 以降に「桂文三と"御膳汁粉"」と題して、文三の口演の速記録と失明時のエピソードなどが紹介されている。