林家染丸
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林家染丸(はやしや そめまる)は、上方落語の名跡。現在は上方林家の事実上の止め名。当代は4代目。初代・2代目と卯年の生まれであったため、代々うさぎ(ぬの字うさぎ)を定紋としている。
なお、3代目桂文三が2代目染丸を名乗っていた時期があったが、短期間であったため、現在は代数に数えられていない。
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[編集] 初代
初代 林家染丸(?)は、明治中期に活躍した上方噺家。初代林家菊丸門下。染物職人であったことから染丸を名乗る。後に浅尾新七となる。林家とみによると、明治30年頃、30才前後で死去。本名、享年とも不詳。
[編集] 2代目
2代目 林家染丸(1867年1月8日 - 1952年11月11日)は、本名: 岡本仁三郎。 享年85。
堺市生まれ。父は新内節の岡本美国太夫。左官職の傍ら、素人落語で花丸を名乗り活躍。22歳の時、3代目笑福亭松鶴門下で梅喬、間もなく5代目松喬を継ぐ。後、初代枝鶴との「松鶴」襲名争いに敗れ、7代目桂文治(2代目桂文團治)の勧めにより、1912年5月、2代目染丸を襲名した。以降、上方林家は、林家正楽の系統が絶えたこともあり、元来の林家正三の流れから、笑福亭の傍流となる。
人格円満で、多くの人々に慕われた。昭和10年代には「林染会」を組織し、後進の指導に力を尽くした。門下に3代目染丸、3代目染語楼らがいる。夫人は寄席囃子界随一の存在であった林家とみ。
[編集] 3代目
3代目 林家染丸(1906年3月25日 - 1968年6月15日)は、本名: 大橋駒次郎。あだ名は「おんびき」(ヒキガエルのこと)。享年62。
父は義太夫の竹本小七五三太夫。12歳の時、父と死別し、帽子問屋の丁稚となる。13歳の時、3代目桂文三門下の桂次郎坊に桂駒坊の名をもらい、帽子商や消防署員を勤める傍ら素人落語を続ける。
1932年、素人落語コンクールで2代目染丸の目に留まり、入門。染五郎(後に柳家金語楼にあやかり2代目染語楼)を名乗るが、1944年、日中戦争で出征し、湖南省衡陽にて慰問団長となる。1946年7月に復員後は、静岡の妻の実家で商売を営む。
1953年8月、弟弟子の2代目小染(のちの3代目染語楼)と2代目桂春團治夫人・河本寿栄の尽力により芸界に復帰し、3代目染丸を襲名。1957年、上方落語協会の創設に伴い初代会長に就任。毎日放送「素人名人会」の審査員を務め、そのえびす顔でお茶の間の人気者ともなった。
門下には、4代目染丸の他、4代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)、3代目染三(オール阪神・巨人の師匠)らがいる。
ちなみに、ネタの『ふぐ鍋』で、フグをもらった旦那の家に出入りする男「大橋さん」の名は、3代目の本名と愛嬌溢れる容姿に由来する。もとは林家一門内でのみ使われていたが、現在は他の一門に属する噺家が『ふぐ鍋』を口演する場合でも用いられている。
[編集] 4代目
4代目 林家染丸(1949年10月10日 - )は、3代目染丸門下。2代目染二を経て、4代目染丸を襲名。本名: 木村行志。
[編集] 出典
- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『紅梅亭界隈』(富士正晴著)- 講談社学芸文庫『桂春団治』に併録
- 『上方落語家名鑑』(やまだりよこ著、出版文化社、2006年)
- 『二代目さん 二代目桂春團治の芸と人』(河本寿栄著、青蛙房、2002年)
- 東西落語家系図 - 桂七福公式サイト内の系図
- くだるくだらない物語 第12回 亭号の東西史(三) - 和の学校公式サイト内の記事