桂文枝
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桂 文枝(かつら ぶんし)は上方落語の名跡。5代目の死後、空き名跡となっている。桂文治の名跡が東京に移ってからは、事実上、上方桂一門の止め名となっている。
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[編集] 初代
初代 桂文枝(1819年 - 1874年4月2日)は、本名同じ。明治維新で戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。
大阪心斎橋の生まれ。家具職人であったという。妻は名をサトといい、1880年6月22日に没している。
上方3代目桂文治門下。4代目文治門下とする説もあるが、あるいは3代目の死去後、4代目預かりとなったのかもしれない。1840年、笑福亭梅花の門人となり萬光を名乗る。後、文治門下に転じ、梅花、梅香を経て、初代文枝を名乗る。俗に藤兵衛という。
上方落語中興の祖。当時流行していた唄や踊り交じりの派手な噺ではなく、素噺で評判を取った。この芸風は、2代目・3代目の文枝にも引き継がれてゆく。また、前座噺の『三十石』を大ネタに仕立て上げた。この噺を百両で質入し、その間は高座に掛けなかったため、見かねた贔屓客が質受けした話は有名である。
門人には、「四天王」として知られる、初代桂文三(後の2代目桂文枝、桂文左衛門)、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)、初代桂文團治、2代目桂文都(後の初代月亭文都)の他、初代桂文我、3代目桂文吾、初代桂文昇らがいる。
近年、大阪市天王寺区の全慶院から墓碑が発見された。法名: 桂壽院善譽諦心文枝居士。享年56。
[編集] 2代目
2代目 桂文枝(1844年 - 1916年5月16日)は、後の桂文左衛門。本名: 渡辺儀助。享年72。
[編集] 3代目
3代目 桂文枝(1864年 - 1910年12月24日)は、本名: 橋本亀吉。
大阪上本町の城代用達「橋本屋」の子として生まれるが、幼くして父と死別。近所に初代文枝が住んでおり、可愛がられたため6歳で入門。小文を名乗り、法善寺泉熊席で初高座。師匠の没後、2代目文枝門下に移る。1880年に初代桂小文枝を名乗り、旅興行へ出る。1886年に帰阪。1904年、3代目文枝を襲名。
芸風は地味で上品。持ちネタの豊富さは随一であったといい、『土橋万歳』『大丸屋騒動』『箒屋娘』などが十八番だった。また、山村流の舞踊や、笛・胡弓など、音曲の腕前も一流であった。
3代目文枝の死後、上方落語の本流であった桂派は急激な衰えを見せ、興行形式も大八会や反対派などの漫才・色物中心のものへと変化し、後の上方落語衰退の遠因となった。
墓所は初代と同じ全慶院。享年47。
[編集] 4代目
4代目 桂文枝(1891年1月29日 - 1958年3月16日)は、本名: 瀬崎米三郎。享年68。
大阪坂町の生まれ。生家は寄席だったという。4歳から歌舞伎の子役として活躍するが、病弱のため廃業。15歳の時、3代目文枝門下となり、初代桂阿や免(あやめ)を名乗る(5月に入門したため)。後に2代目桂枝三郎となるが、1921年、舞踊家に転じ、山村流を止めて7代目坂東三津五郎の弟子となり、初め坂東三津治、後に三之丞を名乗る。1932年からは満洲の新京(あるいは青島ともいう)へ渡り、踊りの師匠をしていた。2代目三遊亭百生も世話になっていたという。戦後は落語家に復帰し、橋本文司を名乗っていたが、1946年、4代目文枝を襲名。
経歴からも分かるように、舞踊は本格派で、噺を手早く切り上げて踊りを見せるのが常であった。妻が女義太夫の豊竹東昇であったため、落語と義太夫を合わせた「浄瑠璃落語」なるものを作り上げ、披露していた。
戦後は戎橋松竹にも出演。また「宝塚落語会」の指導者として、後進の指導にも当たった。門下には5代目桂文枝らがいる。
[編集] 5代目
5代目 桂文枝(1930年4月12日 - 2005年3月12日)は、本名: 長谷川多持。享年74。
1947年、4代目文枝に弟子入り。2代目桂あやめ、3代目桂小文枝を経て、1992年、5代目文枝を襲名。3代目桂米朝、6代目笑福亭松鶴、3代目桂春団治と共に「四天王」と呼ばれた。現役の弟子は20人。