武林隆重
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武林唯七(たけばやしただしち 寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は江戸時代の武士。名は隆重(たかしげ )。父は渡辺平右衛門。母は北川久兵衛の娘。播磨国赤穂藩士、馬廻、15両3人扶持。赤穂浪士の一人。
文禄・慶長の役で捕らえられ毛利家に仕えた中国人・孟二寛(孟子の後裔)の子孫、渡辺氏を名乗った。兄の半右衛門が渡辺家を継ぎ、次男の唯七は新たに武林家を興した。由来は、祖父孟二寛が現在の中国浙江省杭州武林の出であったからと言われるている。
[編集] 人物
元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易となった。唯七は堀部安兵衛らと同じく仇討ち急進派であった。
元禄15年(1702年)12月15日未明、大石内蔵助をはじめとする47人の赤穂浪士が吉良上野介の屋敷へ討ち入った。唯七は表門隊に属して屋内に突入した。薙刀を構えた敵と出会い、唯七が斬りつけると敵は薙刀を捨てて退散した。薙刀の家紋から、その者が上野介の養嗣子で吉良家の当主の吉良左兵衛と知り、口惜しがった。
1時間あまり、赤穂浪士たちは屋敷をくまなく探索するが吉良上野介は見つからなかった。明け方ちかく、唯七たちが炭小屋に矢を射掛けると、二人の敵が飛び出してきた。敵を斬り捨てると、隠れていた白髪の老人が脇差を抜いて飛び出してきた。間十次郎が初槍をつけ、唯七が斬り捨てた。合図の笛が鳴らされ、内蔵助たちが駆けつけ、死体をあらためると額と背中に松之大廊下で内匠頭が斬りつけた傷があった。吉良上野介に相違なかった。十次郎が首をはねた。
赤穂浪士一党は浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺に引き上げ、墓前に吉良上野介の首級を供え仇討ちを報告した。初槍をつけた十次郎が一番に焼香し、討ち取った唯七が二番に焼香した。
唯七は毛利甲斐守の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命によりお預かりの屋敷で切腹。享年32。