江青
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江 青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiang Qing。1915年 - 1991年5月14日)は、毛沢東の3番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。文化大革命を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。
「江青」は女優時からの名乗りであり、出生時の名は李淑蒙とも李進(李進孩)とも。小学校入学時には李雲鶴と名乗る。「江青」の前の女優としての名乗りに藍蘋がある。毛沢東の漢詩に「李進同志」に宛てたものがある。
[編集] プロフィール
山東省諸城県で生まれ、済南市で育つ。演劇学校に進んだのち青島大学の図書館で副司書として働く。1931年に最初の結婚をするも2ヶ月で離婚した。この頃青島大学での学生運動の指導者だった兪啓威(黄敬)と知り合い同棲するようになる。その影響で1933年に中国共産党に入党した。しかし同年、その愈啓威が逮捕され死刑宣告を受ける(後に釈放)。江青は一時済南に戻り、のち上海へ移り映画女優として藍蘋の芸名で売り出すようになる。
1934年に映画評論家の唐納と結婚したが、唐納はたびたび自殺未遂をおこし、1937年には離婚した。離婚後江青を名乗り、愈啓威と共に上海を脱出、1937年に共産党の本拠地延安に到着。上海から延安まで歩いて移動したという。延安の魯迅芸術学院で演劇を教えた。
毛沢東と知り合ったのもこの頃で、1939年に正式に結婚した。このとき江青25歳で毛沢東は45歳だった。若い頃の江青は都会的でスリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だったらしい。1940年には一人目の娘、李訥が生まれた。江青は毛沢東と結婚したが、夫人の立場で政治に関わることは許されなかった。
この結婚は毛沢東との不倫の末になされたものだが、このことは朱徳や周恩来といった他の幹部達の非難を招くことになる。結局、毛沢東は2番目の夫人、賀子珍と離婚して江青と再婚することになったのだが、その代わり江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。
ところが約束は守られず、1960年代前半から政治活動に参加するようになる。これは、1960年代に入った時点ですでに毛沢東とは事実上離婚状態となっており、その無聊を慰めるために他の党幹部も彼女の政治活動を容認した結果であった。やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の一人として活躍することになる。
1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。この背景として、女優だった頃に自分を評価してくれなかった演劇界に対して個人的怨嗟があったといわれる。
1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文革の主導権を握る。さらに、1976年には復活した鄧小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。1976年毛沢東の死の直後に四人組の1人として逮捕され、1981年に死刑判決を受ける。1983年、無期懲役に減刑。1991年、獄中で精神病の療養中に自殺。