朱徳
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朱徳(しゅとく、チュー・ドー、1886年12月1日 - 1976年7月6日)は中国の軍人、中華人民共和国元帥。 本名:朱代珍、字は玉階。四川省の人。 1922年共産党入党。南昌蜂起を指導し、紅軍の軍長、八路軍総司令を歴任。
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[編集] 生涯
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彼の生家は小作農であり、貧農であった。伯父の朱世林は才気煥発なこの甥をかわいがり、5歳で山菜取りをしなければ生活できない環境の朱徳に教育の機会を与えた。これが朱徳の人生に大きな影響を与える事となる。
- 学歴
- 職歴(軍歴)
- 1908年四川省儀隴県立学堂体育教官及び庶務係
- 1910年雲南省中国国民党軍少尉任官
- 1916年軍長昇進
- 1917年旅団長昇進
- 1927年共産党軍参加
- 1928年中国工農紅軍第四軍軍長就任
- 1937年八路軍総司令就任
- 1955年元帥
- 共産党歴
- 1922年共産党入党
- 1949年共産党副主席(国家副主席兼任)
[編集] 思想
朱徳は1921年、安定した生活を保障された国民党軍を辞した。これは、軍務を遂行する傍ら、雑誌「新青年」を愛読したこと、袁世凱政権打倒を進める軍の行動と、革命の進捗に疑問を抱いたことなどが背景であるといわれる。
1922年初めに上海に出た朱徳は、孫文に面会し、革命の遂行と成功は、軍閥との共闘では実現不可能であり、独自の軍隊組織を持つことの必要性を説いた。軍人としての経験と、革命思想の発露であったろう。また、国民党軍に参加していた経歴も孫文の胸襟を開かせる一助になったことは想像に難くない。
孫文との面談を終えた朱徳は、すぐさま共産党への入党を申請した。しかし、国民党員ではないとは言え、国民党軍で勇名をはせた朱徳の入党に難色を示した李大釗は引き続き切磋琢磨し、機会を見て再度入党申請を出すように諭した。朱徳は失意の内にドイツを目指し、社会主義理論を学んだ。同年(1922年)ドイツで周恩来と面談することに成功する。さすがにその場での入党はかなわなかったが、翌年、周恩来の口添えで入党が許可された。尚、中国共産党史の扱いでは、1922年に李大釗に入党申請した時点で共産党員となったことになっている。
ドイツ留学中に2度労働運動に参加し、2回目の労働運動で官憲に捕縛された朱徳は放校になってしまう。そのため、1925年にドイツからソ連に移動し、共産主義労働大学で軍事を学ぶ。この中で、朱徳は当時の軍閥が割拠する中国には地方利権保護的な資本主義や、軍閥を支える地方のプチブルを生む土壌となった私有財産制を制限する社会主義革命が必要であること、しかしそのためには軍閥を打倒する戦闘行為を避けて通れないこと、社会主義化を支えるのは共産党であるが、非合法で地下組織の状態ではゲリラ戦が有効であることなどを導き出したと思われる。ソ連留学中に教官に提出したゲリラ戦に関するレポートは緻密なものであり、軍人朱徳の真骨頂であったと言う。
また、毛沢東とは同じく農村の出身であり、肝胆相照らす仲として刎頚の交わりを結んだ。「毛朱」或いは「朱毛」と並び称され、敵の多い毛沢東にあって、終生変わらぬ友情を保った。
[編集] 戦略
朱徳は反袁世凱闘争、南昌蜂起の失敗等を通じてゲリラ戦の要諦をつかんだものと思われ、井崗山で毛沢東と共に後の八路軍に通じる基本戦略を打ち立てた。それは、打てる敵は打ち、勝てない敵からはとにかく逃げる、という戦略である。この戦略の基本になるのがゲリラ戦術であった。
朱徳の提唱したゲリラ戦術は、遊撃して撹乱し、必要に応じて山中に身を隠す、というものであった。より具体的には「敵が進めば我は退き、敵が休めば我は撹乱し、敵が疲れたら我は打ち、敵が退けば我は進む」というものである。
[編集] 参加戦役
[編集] 評価
[編集] 関連項目
カテゴリ: 中華人民共和国の政治家 | 中華人民共和国の軍人 | 1886年生 | 1976年没