津田左右吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津田左右吉(つだ そうきち、明治6年(1873年)10月3日-昭和36年(1961年)12月4日)は、岐阜県美濃加茂市下米田町出身の歴史学者。明治24年、東京専門学校卒。卒後、白鳥庫吉の指導を受ける。
古事記や日本書紀の記述、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして厳格に文献批判を行い、実証主義的・合理的解釈を中心とした歴史学をうちたてた。神話を否定する「津田史観」は第二次世界大戦後の歴史学の主流となった。ただ、アマチュアの研究家や保守的な人の中には、津田史観については戦前の皇国史観を否定するあまり盲目的に過信されすぎているとの批判もある。
しかしながら、いわゆる「津田史観」とは明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程についてひとつの相当程度合理的な説明を行った側面も有する。事実明治の近代史学では、歴史の再構成は古文書日記等の同時代史料によるべきであって、たとえば『平家物語』や『太平記』を史料批判なくして同時代史料に優先して歴史の再構成に使用してはならないという原則が、広く受け入れられるに至った。
しかし同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。それを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用したのが津田だった。それゆえ、彼は決してそれほどイデオロギー的に特異な立場に立っていたわけではない[1]。
中学校教員を務め、満州・朝鮮史、ついで『日本書紀』の研究を行う。1918年に早稲田大学講師、1920年に教授となり、東洋哲学を教える。
最初に発表された著書は1912年(大正2)発行の『神代史の新しい研究』。これをさらに発展させたのが、1924年(大正13)に成った『神代史の研究』。津田は51歳であった。この二著は神武天皇以前の神代史を研究の対象にした。皇紀2600年に当たる1940年(昭和15)に蓑田胸喜(みのだむねき)・三井甲之ら国粋主義者が津田に「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」などといった悪罵を浴びせている。政府は、1940年2月に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にしている[2]。
1940年に早稲田大学教授も辞職。津田と出版元の岩波茂雄は出版法違反で起訴され、1942年5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年という有罪となるが、1944年に免訴。
1947年、帝国学士院会員。1949年に文化勲章受章。1960年、美濃加茂市名誉市民第1号に選ばれる。
著書は他に、『文学に現われたる我が国民思想の研究-貴族文学の時代-』『支那思想と日本』など。 岩波書店から『津田左右吉全集』(全28巻、別冊5巻、補巻2巻)が刊行されている。
[編集] 註
- ^ なおこの点については『日本書紀』成立過程の項を参照のこと
- ^ 裁判の経過は向坂逸郎(さきさかいつろう)編『嵐のなかの百年』(1952年)や家永三郎著『津田左右吉の思想史的研究』(1972年)の第五編「記紀批判への刑事弾圧と津田の対応」に詳しい
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 人物関連のスタブ項目 | 日本の歴史学者 | 東洋学 | 満鉄調査部 | 戦前・戦中の言論弾圧 | 1873年生 | 1961年没