海野一幸
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海野一幸(うみの かずゆき、1946年1月1日 - )は、Jリーグ・ヴァンフォーレ甲府の社長。
Jリーグ理事会の理事を兼任している。
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[編集] 経歴
- 1946年、山梨県に産まれる。
- 1968年、東京農業大学卒業。
- 1970年、山梨日日新聞入社。
- 1989年、山梨日日新聞取締役編集局長に就任。
- 1991年、山梨放送取締役に就任。
- 1997年、アドブレーン社取締役に就任。
- 2001年、ヴァンフォーレ甲府代表取締役社長に就任。
[編集] 経営手腕
ヴァンフォーレ甲府の社長に就任後、その類まれなる経営手腕からスポーツ界のカルロス・ゴーンと評されている。ヴァンフォーレの再建の成功はその後の地域クラブがJリーグを目指すきっかけとなり、またサッカーを超えてプロ野球の独立リーグの経営にまで生かされることとなる。
[編集] 社長就任当初の状況
ヴァンフォーレ甲府は1965年に甲府クラブとして設立。その後1999年にJリーグ2部(J2)に加入したもののスポンサー収入および入場者収入が伸び悩み、 2000年シーズン終了後に1億1280万円の債務超過(資本金が3億3500万円に対し累積赤字が4億4780万円)に陥る。 大企業がついているチームは赤字を補填することができるがヴァンフォーレ甲府は大企業がついていない市民クラブチームであることからそれができず、また今後も改善される見込みがないことから山梨県等の自治体は支援を打ち切り、出資元の山日YBSグループも解散または身売りを前提に清算を行なおうとしていた。その清算のために新社長として選任されたのが海野である。しかし海野は「私のやり方でやらせていただきます」と清算としての就任ではなくクラブを再建することを目指しての就任を選ぶ。こうして海野によるヴァンフォーレ甲府の再建が始まった。
[編集] 就任1年目
就任直後、第1回の経営委員会が開かれ、粘り強い交渉の結果2001年は継続が決定。しかし2002年以降については2001年度の経営目標として
- 平均観客動員数 3000人以上(2000年実績 1850人)
- クラブサポーター 5000人以上(同 2698人)
- スポンサー収入 5000万円以上(同 2600万円)
を提示され、これらが達成されなければ2001年終了後に解散という条件を突きつけられる。
海野はまず経費の削減による利益の増加を行なおうとしたが、経営危機のときから既にこれ以上削減できる状態ではないことがわかり(裏紙を何度も使用していた等)、これを断念。かわりに山日グループの広告代理店アドブレーン社の前取締役という人脈を生かしスポンサー収益の増加にとりかかる。しかし潰れかかったクラブに出資しようとする企業はなかなか現れなかった。そこで海野は交渉の際「スポンサーになれば税金対策になりますよ(企業経費の広告費は必要経費扱いになり、減税の対象になる)」等とスポンサーになった場合のメリットを強調。更にスポンサー代による収益だけでなくユニホームのクリーニングを無償で行なってくれる所や選手寮の清掃を無償で行なってくれる所も募集。その結果県内企業のはくばく等ががユニフォームスポンサーとして名乗りを上げ、またクリーニングなどを無償で行なってくれる企業も現れ、スポンサー収入については目処がつくことになる。
続いてクラブサポーターと平均観客動員の増加に着手。選手を地域のイベントやボランティア活動に積極的に参加させて交流を図り、また各自治体や企業を回り抽選会の景品を提供してくれることを要請。これに快く応じてくれるところが現れ、ホームゲームにおいてサンクスデーと称し毎試合にわたり抽選会を実施し試合観戦以外でも観客を楽しませることに尽くした。またいきつけの居酒屋などを回りクラブサポーターになってくれることを頼んだ結果、これらの目標も達成され、同時にJ参入以来始めての単年度黒字も成し遂げ、ヴァンフォーレ甲府は2002年以降も継続されることとなった。
[編集] ピッチ看板の鬼
ヴァンフォーレ甲府の2002年度以降の継続が決定したものの依然経営は苦しい状態であった。そこで海野は他のチームに比べピッチ看板の掲出の値段を安く抑えて増やす安く多くの作戦に出た。掲出企業の数を増やすためピッチ看板だけでなく横断幕の掲出、更に走り幅飛びの砂場にも広告用シートを張り、極めつけは怪我人を運ぶための担架の裏にまで整形外科医院の広告を掲出。試合の際山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場は看板で埋め尽くされ、サポーターの間では海野をピッチ看板の鬼と称されている。
[編集] 参考にしたクラブ
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