深溝
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深溝(ふこうず)は愛知県額田郡幸田町の大字。山口県山口市に深溝という地名が存在するが、ここでは、愛知県にある深溝について説明する。
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[編集] 地理
深溝は幸田町の最も南に位置し、三ヶ根山(さんがねさん)と遠望峰山(とぼねやま)に挟まれている。つまり広い谷のような地形である。山で四方が隔てられおり、開発が遅れたために田舎である。現在は国道248号が通り、徐々に発展しつつある。深溝には東海道本線が縦断し、三ヶ根駅を中心に街が広がっている。 全体的に集落となっている。
この地区には、深溝小学校があり、全校生徒合計約350人ほどである。
[編集] 歴史
歴史は古く、縄文時代までさかのぼる事ができる
[編集] 縄文時代
深溝には東光寺遺跡があり、縄文時代からの集落だったと考えられる。海が近かったため非常に豊かで、長野県のものと思われる黒曜石が出土し内陸部の集落と交流があったと考えられている。縄文時代の土器も見つかっている。当時にしては非常に大きい集落だったという
[編集] 弥生時代
東光寺遺跡で竪穴式住居が見つかり、非常に発展したといえる。ガラス玉や、弥生時代後期のものと考えられる無痕の土器などが、出土した。この時代にしては、大きな集落だったという。
[編集] 古墳時代
現在深溝には支配者層を葬ったと思われる古墳が3つ確認されている。日向山古墳、見晴山古墳、馬乗二号墳である。
[編集] 平安時代
各地に荘園が現れ始めた頃、深溝がある西三河にも荘園が成立していった。幸田町には「深溝荘」があり、幸田町はじめ岡崎市南部まで広がっていたとされる。
[編集] 鎌倉時代
鎌倉時代に入ると安達盛長が三河守護となった。承久の乱の後は、北条氏を助け、戦功をたてた足利義氏が三河守護となった。義氏は現在の吉良町に東条城、現在の西尾市に西条城を建て、吉良を中心に勢力を広げていった。義氏の子長氏は、始めて吉良氏を名乗った。
また、寛喜3年(1231年)大場氏が深溝城を建てた。
[編集] 室町時代
室町時代初期の深溝の動きについてはよくわからないが、大場一族が深溝城から勢力を根付かせ行く時代だったと思われる。寛正6年(1465年)、大場次郎左衛門兄弟等が額田郡井ノ口村に砦を構え、東海道の往来を妨げる事件が起きた。幕命によって彼等は松平信光親子に討たれた。松平氏の深溝進出が始まり、大場はこれと戦わざるを得ない状況になったと思われる。
[編集] 戦国時代
大永4年(1524年)に深溝城が、松平信光の子、松平忠定に奪われる。
これより現在までの歴史を書く事が非常に豊富な資料があるため困難になりましたよって別ページに深溝の歴史に関連した記事がありますのでそこへのリンクを行います。大変もうしわけございません
[編集] 歴史関連項目
カテゴリ: 日本の市町村のスタブ項目 | 幸田町