湖川友謙
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湖川友謙(こがわ とものり、1950年1月3日- )は、北海道出身の日本の男性アニメーター、演出家である。その他の名義には、湖川滋、花畑まう、小国一和、亥間我子、重塚我子、TOIIIOなど多数。NEOX所属。
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[編集] 概要
1980年代に、『伝説巨神イデオン』『戦闘メカ ザブングル』『聖戦士ダンバイン』といった日本サンライズ制作の富野由悠季監督のテレビアニメのキャラクターデザインで当時のアニメファンに強い印象を残した。代表作は作画のほとんどを自ら手がけていたアニメ映画『伝説巨神イデオン 発動篇』。
アメリカンコミック風のバタ臭さとしっかりとしたデッサンで描かれた骨格の入ったキャラクターが特徴で、あおりと言われる構図を得意とした。 さいとうたかをの絵に衝撃を口にする一方で、師匠と呼べる存在はいないと語る。
1979年に作画スタジオとして有限会社ビーボォー設立。北爪宏幸、大森英敏、恩田尚之、板野一郎、平野俊弘(現・平野俊貴)、矢木正之、垣野内成美、遠藤栄一、窪岡俊之、坂本英明、南伸一郎、わたなべじゅんいちといったアニメーターが所属した。主力メンバーの離反に伴いビーボォーは1980年代半ばに解散。後にさまざまな意味で伝説的なスタジオとして語られることになったが、湖川はアニメの専門学校で講師を務めて後進の育成に励んでいる。
[編集] 略歴
北海道遠軽高等学校卒業時に、彫塑家を志望して武蔵野美術大学を受けるも合格せず、友人の付き合いで行った東京ムービーのアニメーター採用試験を受けて1970年に東京ムービーへ入社。
テレビアニメ『巨人の星』の動画からキャリアをスタートさせるが、早くから才能を認められ、動画を描き始めてすぐ原画昇格の話が持ちかけられたほど。数ヶ月後には原画に昇格するが、1971年から仲間のアニメーターの誘いでタツノコプロで仕事を始めるようになる。
『アニメンタリー 決断』を始めとして、『科学忍者隊ガッチャマン』『破裏拳ポリマー』『宇宙の騎士テッカマン』と1971年から1976年までタツノコプロの代表作の原画を立て続けに描き、後にそのリアルな作風も相まって湖川はタツノコ系アニメーターと目されるようになる。
1977年からはタツノコプロを離れ、タツノコの演出家だった布川ゆうじが手がける和光プロの『激走!ルーベンカイザー』、東映動画の『超人戦隊バラタック』といったテレビアニメで作画監督を手がけるようになった。東映動画での仕事は、1978年のアニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、テレビアニメ『銀河鉄道999』のキャラクターデザインと総作画監督の仕事へ繋がった。
同年には日本サンライズの『無敵鋼人ダイターン3』の敵側のキャラクターデザインを担当。東映動画と掛け持ちだったため、ペンネームでの参加だった。日本サンライズでは1980年の『伝説巨神イデオン』から富野由悠季とコンビを組み、1985年の『重戦機エルガイム』まで片腕として活躍した。
その後番組『機動戦士Ζガンダム』は既に独立した北爪宏幸らに任せ参加せず、主宰するビーボォーのメンバーを引き連れて、古巣タツノコプロで『超時空騎団サザンクロス』『よろしくメカドック』『炎のアルペンローゼ』の作画を引き受ける。
1984年から1985年にかけては原作・監督・脚本・キャラクターデザイン・作画監督を手がけた『GREED』、『COOL COOL BYE』の2本の作品を製作。
1990年代以降は、テレビアニメの絵コンテや作画監督をペンネームで務める。2005年にはアニメ映画『あした元気になあれ』のキャラクターデザインと作画監督で久しぶりに気を吐いた。
1985年から1986年にかけて、作画技術書『アニメーション作画法』『アニメーション作画法・実技編』を著している。
[編集] その他
湖川と並んで富野監督作品のキャラクターデザイン・作画監督を務めた安彦良和とは同郷(北海道遠軽町)で出身高校も同じ(安彦が2学年上)であるが、お互いアニメ業界に入るまで面識はなかったという。
1994年、日本物産から発売されたPCエンジン用ゲームソフト「聖戦士伝承・雀卓の騎士」は聖戦士ダンバインのパロディ要素がとてつもなく濃い作品であるが、作画監督及びキャラクターデザインを勤めている。(ちなみにゲームの主演は中原茂氏)
[編集] 外部リンク
- TOMO.pal - ファンサイト。詳細な作品歴や語録など。