牧野忠毅
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牧野 忠毅(まきの ただかつ)は、江戸時代の大名。越後長岡藩の第13代で最後の藩主。長岡藩系牧野家宗家14代。
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時代 | 江戸時代末期(幕末)から大正時代 | |||
生誕 | 安政6年3月10日(1859年4月12日) | |||
死没 | 大正7年(1918年)2月3日 | |||
別名 | 鋭橘(幼名) | |||
諡号 | 望山 | |||
戒名 | 淳徳院殿泰興和光望山大居士 | |||
官位 | 正五位、従四位、正四位、従三位 | |||
藩 | 越後国長岡藩主 | |||
氏族 | 牧野氏 | |||
父母 | 父:牧野忠恭、母:千代 養父:牧野忠訓 |
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妻 | 正室:大久保教義の娘・鎮子 継室:牧野康哉の娘・清子 |
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子 | 2男1女、養子:牧野忠篤 |
安政6年(1859年)3月10日、第11代藩主・忠恭の四男として江戸で生まれる。慶応3年(1867年)に父が隠居したとき、養子である牧野忠訓がいたため、家督を継ぐことができなかった。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争で忠訓が新政府に抵抗したことを理由に処罰されたため、同年12月22日、先代藩主の息子である忠毅が、7万4000石から2万4000石に所領を減らされた上で、第13代藩主として家督を継ぐことを明治新政府から許されて、藩主になったのである。
明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還で長岡藩知事となる。しかし明治3年(1870年)10月22日、廃藩置県に先立って藩知事を辞任し、ここに長岡藩は廃藩となった。明治8年(1875年)2月2日、病により家督を弟の忠篤に譲って隠居し、その後は長岡で療養に努める。明治20年(1887年)12月に正五位、明治25年(1892年)7月に従四位、明治30年(1897年)に正四位、明治36年(1903年)に従三位にそれぞれ叙任している。
大正7年(1918年)2月3日に死去。享年60。墓所:新潟県長岡市東神田の栄涼寺。
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