王位継承法
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王位継承法(おういけいしょうほう、英:Act of Settlement)は、イギリスの王位継承について定めた法で、イギリス不文憲法を構成する法典の一つである。歴史上何度か制定・改定されているが、特に言及されることが多いのは1701年に権利章典を改正して成立した王位継承法である。本項では以下、この1701年の王位継承法について説明する。
1701年当時のイングランド王兼スコットランド王であるウィリアム3世には嗣子がなく、義理の妹アン(プロテスタント)とその子らが王位を継ぐことが期待されていたが、彼女の子らがことごとく死亡し、アン以降の国王最有力候補がジェームズ老僣王となった。これを阻むべく王位継承法は制定された。
この法によって定められた主な条項は、以下の通りである。
- 王位継承者は、ステュアート家の血を引いている者(ジェームズ1世の外孫・ハノーファー選帝侯妃ゾフィーおよびその子孫)に限る。
- イングランド国教会信徒のみが王位継承権を持つ(カトリック信徒は王になれない)。同様に、その配偶者も国教会信徒でなければならない。
- 外国出身の王は、議会の承認を得なければイングランド国外の領地のために出兵できない。
- 王は、議会の承認なくしてイングランド国外に出ることはできない(1714年廃止)。
これはジャコバイトの脅威が背景にあり、この王位継承法なくしてはアン女王の死後、名誉革命によって玉座を逐われたジェームズ2世の長男(アンの異母弟)ジェームズ老僣王に王位が移る可能性が強まったためである。この法によってカトリックを王位から締め出すと、カトリックが比較的多くステュアート家の発祥地であるスコットランドでは反発がおこり、スコットランド議会で1703年、スコットランドの王を自らで決するという安全保障法(the Act of Security)が成立した。これに対してイングランド側は交易の制限などの圧力をかけたため、スコットランドは経済的に追いつめられた。その結果、1707年に合同法が成立して、スコットランド議会は自らの解散を宣言、イングランドとスコットランドの合同によりグレートブリテン王国が成立した。1714年にアン女王が死去すると、王位継承法によってゾフィーの長男、ハノーファー選帝侯ゲオルクがグレートブリテン王に迎えられ、ジョージ1世として即位した。
現在もこの王位継承法は受け継がれているが、カトリックの王位継承禁止を撤廃すべきという意見も少なくない。エリザベス2世の従弟マイケル王子(ケント公息、Prince Michael of Kent)はカトリックの女性と結婚し、王位継承権を失った。2005年の総選挙で保守党のマイケル・ハワードは、カトリック王位継承禁止条項の再検討を公約に選挙戦を戦ったが、労働党に敗れた。
[編集] 関連事項
- 合同法 (1707年)
- ハノーヴァー朝
- ジャコバイト
- エリザベス・ステュアート