生口
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生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜又は奴隷とされている。
107年(後漢永初1)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。なお、魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。
生口は倭国だけのものではなく、例えば高句麗の広開土王碑に、396年、百済が高句麗に大敗したため生口を高句麗へ献じたことが見える。
また高麗史(高麗史 十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王元年(1274年))によれば、 文永の役(1274)で高麗に帰還した金方慶らは、日本人の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献上している。
- 侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人献王及公主
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