田村宗顕
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田村 宗顕(たむら むねあき、元亀3年(1572年)? - 正保5年(1648年))は、陸奥国の戦国大名。田村氏顕の子で、伯父の田村清顕の養子。定広の父。
田村氏当主の清顕が1586年に嫡子のないまま没すると、家中はそれぞれ婚姻関係にある伊達氏と相馬氏の勢力争いで分裂した。相馬義胤が三春入城を企てて失敗するなどの騒ぎがあったが、その後伊達政宗によって宗顕が田村氏の当主となり、家中の混乱は収まった。
1590年、小田原の役が起こるが、宗顕は伊達氏の旗下として参陣しなかったところ、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されてしまう。
その後、牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲し、子の定広は片倉氏を称した。
田村氏の名跡は宗顕の死後、1652年に伊達忠宗の三男宗良が継いだ。
田村 宗顕(たむら むねあき)は、江戸時代の大名。陸奥一関藩の第6代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 天明4年5月2日(1784年6月19日) | |||
死没 | 文政10年11月8日(1827年12月25日) | |||
別名 | 紀三郎(幼名) | |||
戒名 | 常徳院殿 | |||
官位 | 従五位下、右京大夫 | |||
藩 | 陸奥一関藩主 | |||
氏族 | 堀田氏、田村氏 | |||
父母 | 父:堀田正敦、母:木村氏 養父:田村村資 |
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兄弟 | 堀田正衡、田村宗顕、毛利元世 | |||
妻 | 正室:田村村資の娘・かね 継室:土岐頼之の娘 |
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子 | 田村邦顕(次男)、田村邦行(四男)、 鈴木顕泰(五男)など |
天明4年(1784年)5月2日、堀田正敦(伊達宗村の八男)の次男として生まれる。寛政5年(1793年)12月に田村村資の養子となる。寛政10年(1798年)4月27日に村資が隠居したため、後を継いで藩主となり、徳川家斉に拝謁する。しかし連年の凶作で藩財政が極度に悪化し、幕命による蝦夷地警備に対しても、財政悪化により行えなかったほどであった。文政10年(1827年)11月8日に死去。享年44。
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