神州丸
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神州丸(しんしゅうまる)とは、日本陸軍が建造した揚陸艦。上陸用舟艇の母艦として高い能力を持ち、今日の強襲揚陸艦のパイオニア的存在である。存在秘匿のため龍城(丸)、MT(船)、GL(船)などのさまざまな名称が使われた。日本陸軍内での艦種名は特殊船とされた。
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[編集] 建造の背景
上陸用舟艇は、波打ち際に乗り上げて将兵や装備を揚陸するために、吃水が浅く小型であるものがほとんどである。このため、上陸用舟艇は外洋航行力に乏しく、根拠地から上陸地点までは他の母艦によって運ばれる必要がある。1930年当時の舟艇母艦は、上甲板に舟艇を搭載し、上陸実行の際に艦に備え付けてあるデリックやガントリークレーンで搭載舟艇を泛水(へんすい・海面に降ろすこと)させる方式をとっていた。泛水時、基本的に舟艇は空船で、将兵は泛水後に母艦の舷側に垂らされた縄ばしごやロープを伝って舟艇に乗り込み、砲や車輛、馬匹などはクレーンで舟艇内に吊り降ろしていた。この方式は舟艇が多数の場合時間がかかるほか、荒天時の移乗・積み込みが難しく、迅速な上陸作戦を行うのに不向きであった。
このような技術的背景のもと、日本陸軍は運輸部を中心として、対米戦におけるフィリピン上陸作戦を睨んだ揚陸艦艇の研究に力を入れていたが、1932年(昭和7年)の上海事変における七了口上陸作戦の戦訓を元に、輸送能力の高い上陸用舟艇母艦を建造することとなった。これが本船・神州丸である。
[編集] 神州丸の特徴
本船の最大の特徴は、上陸用舟艇の搭載・泛水方法にある。神州丸は、通常の舟艇母艦のように、甲板上に上陸用舟艇を搭載したほか、船体内に広い舟艇格納庫を設け、ここにも上陸用舟艇を搭載した。舟艇格納庫内には、ローラーを利用した軌条が敷かれ、天井に設置されたトロリーワイヤーを利用して舟艇を軌道上で移動させることが出来た。この軌条は船尾まで伸びており、船尾の滑走台に通じていた。船尾には門扉があり、揚陸作業時にはバラストタンクが注水され船尾が下がるとともにこの門扉が開いて、滑走台の後端が海面に接するようになっていた。つまり神州丸は、軌条の上を次々と移動させることで、兵員・物資を搭載した上陸用舟艇を一気に泛水させ、部隊を揚陸させることが可能だったのである。(なお他の舟艇母艦と同じように、デリックやガントリークレーによる泛水も併用した)
またもう一つの大きな特徴として、揚陸部隊援護用の航空機の運用を考慮していたことが挙げられる。上部構造物内に航空機用の格納庫(馬欄甲板という秘匿名称が付けられていた)が設けられ、火薬式のカタパルトを利用して戦闘機や偵察機などの航空機が発進できるようになっていた。本船の航空機運用能力は、航空機の急速な発達により、建造後数年で実質的な意味を失ってしまったが、神州丸はただの上陸用舟艇母艦から一歩進んだ、総合的な揚陸作戦能力を持った強襲揚陸艦の先駆的存在であると言える。
[編集] 船歴
- 1933年4月8日播磨造船にて起工
- 1934年3月14日進水、11月15日竣工
- 1937年5月、舞鶴海軍工廠にて舷側の水中防御を改善する工事に着手
- 同年7月、日中戦争勃発にともない改善工事を未成のまま中断。8月、太沽上陸作戦に参加。11月、杭州湾上陸作戦に参加。以降バイアス湾上陸参戦(1938年10月)、海南島攻略作戦(1939年2月)などに参加
- 1941年12月、マレー作戦のシンゴラ上陸作戦に参加。
- 1942年2月28日、蘭印作戦のジャワ上陸作戦に参加中、バタビア沖海戦に巻き込まれ、巡洋艦最上の発射した魚雷が命中し、大破擱座
- 救難の後、門司へ回航。1943年10月に修理を完了。以降輸送任務に従事。
- 1945年1月3日、レイテ島への輸送任務の帰路、台湾の高雄沖にて米機動部隊の空襲を受け、大破放棄。漂流中に米潜水艦アスプロの雷撃を受け沈没。
[編集] 要目
- 排水量:7,100トン(公試時。総トン数は8,108総トン)
- 垂線長:144m
- 幅:22.0m
- 深さ:10.8m
- 吃水:4.2m(後に改修で5.0mに)
- 主機:艦本式タービン1基、1軸、7,500馬力
- 最大速力:20.4ノット
- 航続距離:不明
- 兵装:7.5cm単装高射砲4基、20mm単装高射機関銃4基
- 搭載力:兵員2,000名、大発29隻、小発25隻、装甲艇4隻(最大値)
(数値には異同が多いが、ここでは『艦艇学入門』P104-105による)
[編集] 参考文献
- 瀬名尭彦「昭和の日本陸軍船艇」『世界の艦船』506号、P22-23、1996年
- 石橋孝夫『艦艇学入門-軍艦のルーツ徹底研究』光人社〈NF文庫〉、2000年
- 松原茂生、遠藤昭著『陸軍船舶戦争』戦誌刊行会、1996年