稲垣重定
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稲垣 重定(いながき しげさだ、慶安元年(1648年) - 宝永4年11月10日(1707年12月3日))は、近江山上藩の初代藩主。稲垣重太の長男。正室は牧野康成の娘。子に重房、娘(市橋直方室)。官位は従五位下、備後守。安芸守。
明暦4年(1658年)6月25日、家督を継ぐ。延宝4年(1676年)3月4日、書院番頭となり、延宝7年(1679年)8月12日に大番頭となる。天和2年(1682年)5月21日、丹波国内で2000石を加増され、天和3年(1683年)5月21日に徳川徳松の側役となる。貞享2年(1685年)11月6日に若年寄となり、武蔵国内で5000石を加増され、合計1万3000石の大名となった。元禄11年(1698年)3月7日、常陸国から移封されて近江山上藩主となる。藩政においては奉行制度を確立した。宝永4年(1707年)11月10日、60歳で死去し、後を子の稲垣重房が継いだ。法号:泰昌院的応政端大居士。墓所:群馬県伊勢崎市の天増寺。
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