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稲垣 重綱(いながき しげつな、1583年(天正11年) - 1654年2月24日(承応3年1月8日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての徳川氏の家臣。稲垣長茂の子。官位は従五位下、摂津守。正室は森川氏俊の娘。子に稲垣重昌、真田信政室、本多正直室ら。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)の居城・信州上田城攻めに参加した。慶長17年(1612年)、父・長茂の死により家督と上野国伊勢崎藩1万石の所領を継ぐ。慶長19年(1614年)からの大坂の役においては酒井家次隊に属して参戦し、戦功を挙げたことから元和2年(1616年)、越後国藤井藩2万石に加増移封された。元和6年(1620年)、さらに3000石加増のうえ、越後国三条城に居城を移した。慶安元年(1648年)から慶安2年(1649年)の間には、大坂城代も務めている。
慶安4年(1651年)、三河刈谷に移封され、承応3年(1654年)1月8日、72歳で死去した。法名は法性院光岳宗本。嫡男の重昌は既に死去していたため、重昌の子・重昭が跡を継いだ。